2000年12月7日
興福寺文化講座
「定朝と運慶」
はじめに
 こんにちはみなさん、彫刻家の籔内佐斗司でございます。
 ただいまご紹介にありましたとおり、私は二十代の後半に仏像の修復作業に携わっていたことがあります。平安時代の末から鎌倉時代にかけて作られたたくさんの仏像に直接触れることで、当時の仏師たちの息遣いまでが伝わって来るのがわかりました。そしてそのときの貴重な経験から、私なりの彫刻技法を確立して今にいたっています。

ときどきこんなご質問をいただきます。「あなたにもっとも影響をあたえた芸術家はだれですか?」こういうご質問をなさる方は、おおむね西洋の美術史における巨匠、 たとえばミケランジェロやダビンチ、ロダンやゴッホ、ピカソ、などを念頭にしておられる場合が多いものです。

もちろんこれらの芸術家たちに共感を覚える場合もありますし、大きな影響を受けた作品もあります。しかし私はこう答えます。「私にもっとも影響を与えた芸術家は、平安時代末の定朝と鎌倉時代の運慶です。このふたりは私にとって定朝先生、運慶先生と呼ばなければならない存在です」と。

本日は、鎌倉時代の奈良仏師の一大棟梁「運慶」についてお話することになっていますが、運慶に代表される慶派の活動を考えるとき、そのひと時代前の「定朝」の活動と対比させることによって、鎌倉時代の慶派集団の活動の特徴がより際立ってくると思います。
講演は、一時間ばかりのことですが、どうかお気軽にお聞き下さい。
定朝
 仏師定朝は、平安時代の末に「寄せ木造り」という日本独自の仏像技法を確立し、また平安和様ともいえる穏やかでたっぷりとした仏像様式を確立した大仏師です。日本人が、仏像といわれればすぐに連想する仏像の姿があります。薄い衣を身にまとい、まあるいお顔に細い目で頭は細かい螺髪で被われた穏やかなお姿、「円満具足」という言い方をしますが、そういう阿弥陀さまの形式を創造した仏師が、定朝なのです。

なんと千年たった現在でも、仏師たちは基本的には同じ比率と技法を用いて仏像を作っています。定朝スタンダードは、千年も続いているわけです。
定朝のすごいところは、造形上の様式を作っただけでなく、仏像の品質を落とさずに大量に再生産するシステムを作り上げたことです。また、定朝というひとりの彫刻家だけでなく、ほかの仏師が作っても定朝様式の阿弥陀さまになるように技法と様式を標準化したことです。これは、近代工業の大量生産方式の概念ととてもよく似ています。
こうした平安末期の阿弥陀像を、私はしばしば近年の自動車産業に例えてお話をいたします。定朝は、仏像彫刻のヘンリ−フォードといってもいいかも知れません。

 「なむあみだぶつ」ととなえれば、誰でもが極楽往生できるというきわめて平等主義の宗教が浄土教であり、その祈願の対象は「全く同じ様相をしていなけらばならない」と当時の人は考えたのかも知れません。
したがって、世界の信仰史上に例を見ないほど均一化された彫刻の大規模な需要が発生しました。ここが、あとで見て行く慶派の仏像とのもっとも大きな相違点です。

美術史家の副島弘道さんの「運慶」という本によりますと、白河上皇が一生の間に作らせた仏像の数を「中右記」という文献から紹介しています。それによると、生丈六像(丈六の2倍の坐像で坐高が約5メートル、立像に換算すれば約10メートル、南大門の仁王さまの2倍近い大きさに成ります。)の像を5体、丈六像(坐像で約2.5メートル、すなわち平等院の阿弥陀さまの大きさ)を627体、等身以下の中型の仏像にいたっては6000体を越すのだそうです。

同じ副島さんの本には、定朝が等身大の仏像27体を、約100人のスタッフを率いて54日間で作り上げたという「左経記」の記録も紹介しています。当時、仏像制作がいかにビッグビジネスであったかが伺えます。近代や現代の芸術家のイメージなど吹き飛んでしまうすさまじさです。
 来世への旅支度として、寺院を建立し阿弥陀さまを招来しようとするひとは、それぞれの経済力に合わせて仏師たちに仏像を注文しました。それは現代人が車を選ぶ時に似ています。世界に冠たる日本車は移動の道具としては、価格に関係なく機能に大差はありません。ですから予算に応じて軽乗用車から小型の自家用車、また中型、大型、高級車と選択して行きます。目的地へ行くまでの方便としては小さな乗用車でもよいわけですが、居住性やステータス、安全性を重視すると、大型の高級車という選択になります。供給側としてもそうした品揃えをしています。
宇治の平等院の阿弥陀さまは、西方浄土まで乗って行くロールスロイスというところでしょうか?

 定朝様式の仏像は、大きさと荘厳の豪華さで差別化をはかりましたが、個々の仏像の個性をなくすことで、極楽往生の機会均等を保証したともいえます。
 この様式の仏像は、日本全国で見ることができます。しかし定朝作と確定できる仏像は、宇治の平等院の阿弥陀さま唯一といわれます。したがって美術史の研究者にとって彫刻家としての定朝研究はとてもむつかしいと聞きます。
 これほど高名であり、後世に影響を及ぼした芸術家でありながら、本人の作品であると確定できる作品が一点だけというのも世界的にみて極めて例外的なことなのです。
もちろん、定朝様式を踏襲した院派や円派といわれる京都の優秀なメーカーも育ちました。しかし定朝様式は、その造形と制作システムがあまりにも完成されすぎていたため、定朝以降の後継者たちは、新しい様式を生み出す創造性と活力を失ってしまいました。

今、奈良仏師と定朝様式の仏師たちを対比させるようなお話をしてまいりましたが、じつは院派や円派と同じく、慶派の仏師たちも人脈を辿れば定朝の直系です。定朝の二世代あとの頼助、その次の康助らが奈良に来て工房を設立したのが奈良仏師の源流といわれています。運慶の父である康慶は、定朝の五代後のひとで、彼のこどもや弟子たちが「慶」の字をつけた名前を名乗ったので「慶派」といわれるようになりました。
 平安貴族の時代から、本格武家政権に移項する時代、そして文化的にほぼ鎖国状態であった平安時代から、国を開き学芸や文物が大量に入ってくる新しい時代には、若く活力に富み、柔軟な思考のできるベンチャー集団が必要とされていたのです。
運慶
 前振りが永くなりましたが、本題である慶派の作例をスライドを使って見てまいりましょう。
平安時代の末期、藤原氏に代わって政権を掌握していた平家一門は、当時大きな政治勢力であり軍事勢力でもあった東大寺や興福寺が平家の潜在的脅威であり、源氏と結託することをとても恐れていました。ですから、その殲滅をはかるため、南都を焼き討ちしてしまったわけです。
 灰燼に帰してしまった東大寺や興福寺が復興されたときに、中心となって仏像を作った仏師集団を総称して慶派といい、そのもっとも充実した時期の棟梁が運慶でした。

 ですから、当時の南都の寺院勢力は、寺院の復興事業を興す時、京都の貴族や平家と密接に繋がっていた京都の仏師たちを遠ざけたのかもしれません。そして、奈良の天平時代の仏たちに親しんでいた仏師たちに、南都復興という壮大な事業を依頼したのでしょう。
私は美術史家や文学者ではありませんので、このあたりの事情を文献を渉猟して検証することはできませんが、ぜひ南都復興の壮大なドラマを、わかりやすく活き活きと解き明かして頂けないものかと願っています。歌舞伎の勧進帳もそうした時代を背景に生みだされた素晴らしい戯曲なわけですから。

 さてここから先は、興福寺のご仏像のスライドを見ながらお話を続けて参りたいと思います。

1)1-1阿修羅像
2)1-3沙羯羅像
3)2-6須菩提像
 これらはいうまでもなく天平時代の八部衆と十大弟子です。
脱活乾漆という漆の張り子像です。中は空っぽですからとても軽く出来ています。遣唐使はこうした軽い仏像を唐から舟に積んで持ち帰り、当時の仏師たちはそれらを見ながら国産の乾漆像を作ったのではないでしょうか。天平時代は、日本が中国に向けて大きく門戸を開き、貪欲になんでも摂取しようとした時代です。ある意味では鎌倉時代と似ています。慶派の仏師たちも、こうした仏像に必死になって追いつこうとその造形や技法を研究したことでしょう。

4)4-10迷企羅大将像
木造のレリーフは比較的珍しいものですが、この十二神将はいずれもみごとな出来栄 です。一体として半端な出来の物はありません。仏師のみごとな力量がうかがえます。鎌倉時代の天燈鬼、龍燈鬼の愉快な造形の原型を見る思いがします。

5)5木造薬師如来坐像
平安時代の中期ころの薬師如来像です。一本の大きな桜の木で頭から体幹部まで彫り出してあります。衣の衣紋は、この時代を代表する「翻波式」といわれる様式です。
室生寺の釈迦如来坐像などに顕著に見られる衣紋形式で、大きな皺の間に小さな皺をつくり、まるでおだやかな波が寄せているように見えます。頭を見ると螺髪が取れているので、螺髪ひとつひとつを別に作って頭に植え付けていたことがわかります。平安末期の定朝様式の仏像は、螺髪をうんと細かくまた頭に直に彫り込んでいます。鎌倉時代になるとふたたび植え付け式になり、螺髪も大きくなります。このお薬師さまのお顔は、平安時代というよりは、慶派の仏像を彷佛とさせるところがとても興味を引きます。

6)7木造地蔵菩薩立像
 典型的な平安初期の一木造りの立像です。蓮台から頭の先まで一本の木で作られています。たいへんみごとな造形です。このような造形も、慶派の仏師たちの目に触れ、インスピレーションを掻き立てたことでしょう。

7)8-1木造仏頭(旧西金堂)
 鎌倉再興期に作られたとされるこの仏頭は、運慶またはその父・康慶らの手になるといわれています。定朝様式の仏像などに感じる円熟味はありませんが、とても若く溌溂とした未完成の造形を感じます。化仏などは長岳寺の三尊仏との造形的な共通性を感じます。
金箔の下に塗られている黒い漆が、漆黒ではなく赤味を帯びて濃い小豆色に見えます。運慶のもっとも若いころの作例として知られる円成寺の大日如来もやはり小豆色の黒漆を使っています。

10)11-1天燈鬼立像
11)11-2龍燈鬼立像
私は、興福寺の仏像の特徴のひとつに「可愛らしさ」と「滑稽み」があげらるのではないかと思います。可愛らしさは、「八部衆」や「十大弟子」を思い浮かべていただければわかると思います。滑稽味は、先ほどの「板彫り十二神将」などにも表れています。鎌倉時代に作られたこの天燈鬼や龍燈鬼は、邪悪の象徴である「邪鬼」であるにもかかわらず、とても可愛くそしてユーモラスに表されています。また立ち上がった邪鬼というのはとても珍しいものです。

23〜26)76-1〜4木心乾漆四天王立像(現北円堂)
「可愛らしさ」「滑稽味」の系譜を辿って行くと、平安初めころのこの四天王像にも気がつきます。容貌魁偉ではあるけれど、どこか愉快な感じがします。
 
29〜32)83〜86木造四天王立像(現東金堂)
東金堂にある平安時代のこの四天王像は、本体とともに踏み付けられている邪鬼もとても愛嬌のある顔と姿で作られています。ちょっと見づらい位置にありますので、拝観者のためにぜひ写真パネルを掲示して、何百年も踏み付けられている邪鬼たちにも光を当ててやっていただきたいと思います。

33〜42)84-1〜12木造十二神将立像(東金堂)
 おなじく東金堂で賑やかに立ち並ぶ十二神将も、恐ろしいというよりは、ユーモラ スな感じをうけます。鎌倉時代の作例ですから、さきほど見てまいりました「板彫り十二神将」の影響があったことが想像されます。ひとつひとつを丹念に見ていますと、いずれも闊達な素晴らしい作例であることがわかります。こんな傑作を大きな仏像のあいだにさりげなく並べておくとところは、さすがに興福寺という感じがいたします。興福寺の仏像の特徴を、「可愛らしさ」と「滑稽味」を挙げましたが、ほかに「男前」と「かっこいい」というのがあると思います。

8)10-1金剛力士立像 阿形
9)10-2金剛力士立像 吽形
これらは、世界中のどこに出しても第一級の人体彫刻としての評価を得るのは間違いのないみごとな造形です。肉体だけでなくお顔の造りも、力士の精神性まで感じさせる立派な肖像彫刻になっていますし、腰布の造形も完璧です。お顔は、天平時代の伎楽面を参考にしているのではないかと想像します。文句のつけようもなくかっこいいと思います。

48〜51)90-1〜4木造四天王立像(南円堂)
この四天王さまも、どれも凛々しくてかっこいいですね。

19)73木造弥勒如来坐像(北円堂)
私は興福寺の数あるほとけさまのなかで、この弥勒如来のひきしまったお顔は私のタイプです。とても56億7千万歳には見えません。

43)88木造不空羂索観音菩薩坐像(南円堂)
この南円堂の大きな不空羂索観音さまは、運慶の父である康慶が弟子を率いて作ったそうで、どっしりとした名作です。いかにも慶派の好みを表しています。

27)81木造文殊菩薩坐像(東金堂)
興福寺の男前の系譜のなかには、この「文殊菩薩」も挙げられると思います。

28)82木造維摩居士坐像(東金堂)
この維摩さまは、ちょっと年を喰っていますが、若い頃はなかなかのもんではなかったかと思わせます。

20)74木造無著菩薩立像(北円堂)
21)74木造無著菩薩立像(アップ)
無著さんも、偉丈夫の男前です。

22)75木造世親菩薩立像(北円堂)
世親さんは、無著さんのよこで、ちょっと見劣りがするかもしれませんが、しかし引き立て役も大事な役所です。

12)14-1厨子入り木造弥勒菩薩半跏像
 端正なお姿といえば、この弥勒菩薩を思い出します。半跏といわれる片足を台座から下ろした坐像は、胡座の坐像よりとても手間がかかります。天平時代や平安初期までは多く見られますが、大量生産を前提とした造形の平安末期の仏像にはめったに見られません。また厚くて煩雑な衣の襞も、鎌倉時代に復古します。仏像を、芸術作品 という近代的な観点だけでなく、工業生産物として見ると、造形の特徴も時代をよく反映していることがわかります。

44〜47)89-1〜6木造法相六祖坐像
釈迦十大弟子もそうですが、興福寺にはたくさんの僧侶の像があります。この六祖像も肖像彫刻として世界の第一級品です。さきほどの無著、世親像、や文殊、維摩など、この時期の鎌倉仏師たちの造形力には全く脱帽させられます。

私は冒頭に、平安末期の仏師たちについてお話しました。彼らは、定朝様式という造形的にはほとんど区別のつかない仏像を営々とつくり続けました。これは、時代の要請であったわけです。鎌倉時代の慶派仏師たちは、ひとつひとつまったく違う個性を持って見間違えることのないほとけさまを作りました。信仰の対象を作る仏師としてどちらの姿勢が、よいのか軽率には言えないと思います。その時代に適合しえたから、それぞれの時代で素晴らしいしごとを成しえたのだと思います。
そして、こういうまったく正反対の造形活動が、ほんの百数十年のあいだに京都と奈良で起きたことが、私には不思議でなりません。
運慶と定朝、どちらも彫刻家として傑出していましたが、同時に組織経営の能力とプロジェクトリーダーとしての希有な才能を持ちえた人物たちでした。天平時代と鎌倉時代は日本の彫刻史上、もっとも豊かな時代でした。興福寺を始めとする奈良の寺々は、わたしたち美術に携わる者だけでなく現代を見つめ未来を考えようとするひとたちにとっても、かけがえのない学舎であるといっても過言ではありません。

お話は以上です。長い時間おつき合いいただきまして、ありがとうございました。