「佐藤朝山天」記念講演会

2006.10.15

一橋大学小平国際共同センター多目的ホール

佐藤朝山〜天平の幻影〜


 こんにちは、ただいまご紹介にあずかりました彫刻家の籔内佐斗司でございます。私どもの大先輩である平櫛田中先生ゆかりの田中美術館主催で講演会をさせて頂けることをたいへん光栄に思っています。

 またその講演のテーマが幻の天才彫刻家「佐藤朝山」ということもありまして、お話をさせて頂く方もたいへん楽しみにさせて頂いているところであります。

福島の風景

 今年の夏、福島県に短い旅をしました。そして都会の喧噪を忘れさせる溢れんばかりの陽光と木々の緑に心が洗われる思いがいたしました。

 のどかな田園が続くこの地が、平安時代の最も早い時期には、豪壮な伽藍を有した巨大寺院がいくつも築かれ、みちのくの仏都としてたいへん栄えた地域であったことを知る人は今ではたいへん少ないのではないかと思います。当時、みちのくの僻地を開拓した理由は、藤原一族が鉱物資源の獲得と蝦夷地開発の最前線基地にしょうとしたためだと思われます。そして聖武天皇と光明皇后に倣い、まず仏教でこの地域を治めようとしたのだともいわれており、南都法相宗の学僧・徳一の指導のもと、天平時代に平城京の大寺院を造営した工人の後裔がこの地域に移り住み、造寺造仏を行っていたであろうことが近年の発掘調査によって明らかにされています。

 会津にほど近い湯川村に残る勝常寺の堂々たる薬師如来坐像(国宝)と一群の仏像(重文)は、当時の造形水準の高さを十二分に伝えています。また現在復元工事が進んでいる磐梯町の慧日寺跡には、最澄と一大宗教論争を展開し、また空海にも「徳一菩薩」と書状に書かせた稀代の傑僧・徳一の墓所がひっそりと残されています。

徳一菩薩像・徳一廟
 いささか前振りが長くなってしまいましたが、本日のテーマは明治から昭和にかけて生きた彫刻家・佐藤朝山であります。
佐藤朝山先生

 近代以降の彫刻界でもっとも優れた彫刻家をひとり選ぶとするなら、私は躊躇することなく福島県が生んだ佐藤朝山を挙げます。わが国のみならず、世界に範囲を拡げてもその思いは変わりません。それは彼の卓越した技量と、作品が発し続ける尋常ならざるパワーに由来しています。

 1888年、福島県相馬郡に生まれた彼の生涯と作品を見ていますと、1000年の時を超えて、先ほどお話申しあげた徳一の時代の造形意志が突如蘇ったのではないかという錯覚に襲われてしまいます。もちろん生前の朝山が勝常寺の仏像群を見て影響を受けたという意味ではなく、この土地が有する時空を超えて共振する波動を感じるという意味であります。

「木花咲耶姫」(1922)、「天女の像」(1960)

 そして彼の精緻な木彫技術が生み出した造形とその表面に施された見事な彩色による作品群、とりわけ「木花咲耶姫」(1922)のたおやかな色香や日本橋三越本店の「まごころの像」(1960)の破天荒なまでの造形と妖艶さに、まさに天平時代の幻影を感じるのは私だけでしょうか。

 佐藤朝山は本名を「清蔵」といい、1888年に宮彫り師の家に生まれました。18歳で高村光雲の高弟である山崎朝雲(1867〜1954)門下に入り、1913年に独立した時に「朝山」号を与えられますが、1940年ころに師との不和から自ら破門を申し出て、この号を返上し本名にもどります。

皇居前「和気清麻呂像」(1940)

 このあたりの事情は、皇居のお濠端に建てられている「和気清麻呂像」の制作に絡んでのことだと言われておりますが、これはのちほど触れることにいたします。

 そして1948年に「阿吽洞玄々」を名乗り、1963年に75歳で逝去しています。朝山から玄々を名乗るまでは再興院展や帝国美術院に所属して旺盛な制作を行いました。彼の圧倒的な力量は平櫛田中はじめ同時代の彫刻家たちから高い評価を得、横山大観も彼を天才と評してはばからなかったといいます。

横山大観のこんな言葉があります。「君、この切れ味をみてごらん。これは、ほんとうの天才ですよ。」こうまで言わしめたのは、朝山の芸術の素晴らしさであったわけです。

 惜しむらくは、1945年の大空襲によって朝山時代の代表的作品を東京馬込のアトリエとともに焼失してしまっていることです。失った作品の写真は、今回の図録にもいくつか掲載されていますので、ぜひご参照下さい。これらの作品が、もしも現在も残っていれば、日本の近代彫刻の系譜は今と違ったものになっていたことと思います。

日光東照宮

 先に述べましたように、彼は宮彫り師の家に生まれています。宮彫りとは桃山以降に発達した社寺建築を飾る華麗で豪壮な建築彫り物のことです。私は三十代のころに「東照宮と玄々」と題してその相関性を「美術手帖」という美術雑誌に寄稿したことがあります(1987)。しかし今あらためて彼の作品を見ていると、東照宮より遙か以前の天平時代の雰囲気を感じるようになりました。これは恥ずかしながら、私自身が成長したからにほかなりません。朝山は、青年時代に古代インド彫刻に影響され、またフランス留学でブールデルに師事するなど当時の先端の芸術思潮と世界性を吸収しながら、己の原点である宮彫りを超えて遙か彼方に先祖帰りをしていったかのように思えます。

 では年代順に作品に即してお話を進めて参りましょう。

「問答」(1913)

*「問答」(1913)

 この作品は、朝雲門下のころに作り始め独立後に発表した朝山のデビュー作で、平櫛田中の仲介で後に原三渓がたいへん高額な値で購入したといういわくつきの作品です。当時の朝山は、まるで石彫のように硬質な印象の作品を生み出しています。この作品を作った翌年に再興院展に迎えられ、朝山は無鑑査待遇になり、すぐに正規会員である同人に推挙されます。いかに抜きんでた評価をされていたかが窺えます。師の朝雲は、文展、帝展という官立展に所属していたわけですから、いわば在野の院展に出品したところを見ると、このころから朝山と朝雲の師弟間の確執がくすぶっていたことが想像されます。

 その後、再興院展を舞台に、こうしたアジア志向の強い作品を多く制作します。日本美術院創立25周年を記念した「同人の欧州派遣事業」に選ばれ、前田青邨らとともに1922年にフランスへ留学し、近代彫刻の巨人・ブールデルのアトリエで過ごします。そして古今のヨーロッパ美術や古代エジプト彫刻などに触れ、また当時の先端的芸術思潮をも吸収しますが、自分の原点を見失うことはありませんでした。惜しいことに朝山時代のたいへん力強い木彫作品の多くが、東京馬込の自宅とともに戦災で焼失してしまったことはさきほど申しあげたとおりです。

 彼が幻の作家になってしまった最大の理由は、初期の代表作を失ったことによるといわれています。本像は写真では大作のように見えますが、高さ65センチほどの像で、初陣にふさわしい清潔感と見事な切れ味の鑿あとが印象的な作品です。

「蜥蜴」(1929)
「鷹」(1931)

*「蜥蜴」(1929)

 私が初めて彼の作品に触れたのは、東京芸大の学生時代でした。東京国立博物館の平常陳列の近代彫刻展示室にひっそりと置かれていた小さな彩色木彫のこの作品でした。一本の古竹に「蜥蜴」が一匹いるだけなのですが、その迫真の写実力に圧倒されてしまった瞬間を、今もまざまざと思い出します。

*「鷹」(1931)2点

 私が学生のころの芸大にはかつて教官であった平櫛田中の記念室があり、彼の作品やゆかりの品々のほか、愛蔵の朝山作品も間近に目にすることができました。記念室には、横山大観記念館所蔵の彩色木彫の「鷹」のための未完成の習作も展示されていました。羽根には一枚一枚墨描きの線が残っていて、ラグビーボールのようなかたちをしていました。私の恩師である澄川喜一先生は、「今は展示ケースに入っているけど、僕たちが学生だった頃は、あれをラグビーみたいに投げ合ったもんだよ」などと冗談とも眞実ともつかない話をして私たちを笑わせたものでした。

「白菜」(1931)
「和気清麻呂像(原型)」(1940以前)

*「白菜」(1931)

 長い間、芸大の彫刻科で一年生が初めて取り組む木彫課題は「白菜」でしたが、その本歌が朝山の作品(1931)であることを知る者は少なかったと思います。もちろん学生が作る白菜は、朝山の作品とは比べるべくもなく、私が学生のころには、もうこの課題はなくなっていました。

*「和気清麻呂像」(1940)

 先ほどお話ししました皇居のお濠端にたたずむブロンズの「和気清麻呂像」が東京国立博物館の「蜥蜴」と同じ作者であったことを私が知ったのは、ずいぶん後になってからでした。しかし、作者を知らなくとも充分に気になる作品であり、作者を知ってからはさもありなんと感じ入ったものでした。

 和気清麻呂という人物は奈良朝末期の女帝・孝謙天皇の寵愛を受けたとされる僧・道鏡の専横を押さえて失脚させ、また桓武天皇が平城京を造営する際にたいへん力を発揮しました。今の天皇家に直結する桓武系の天皇家を守護した人物として皇国史観華やかなりし頃にはたいへん重要視された人物です。

 皇紀2600年を記念して、民間の資金でこの人物の肖像を造営することとなり、三人の彫刻家に競作させることになりました。朝山のほかには、上野の芸大のそばに美術館がある朝倉文夫、(彼は官展系の大物でありました。)そして長崎の平和の像で有名な北村西望の三人に試作を提出させることになったわけですが、北村氏が途中で辞退されるなどして結果的に朝山に決まるわけです。

 さきほど、師・山崎朝雲との不和から「朝山」号を返上したといいましたが、この人選の際に、選考委員の横山大観は積極的に推薦したにもかかわらず、師である山崎朝雲が推薦しなかったことが直接の原因になったようです。

 当時の師弟関係というのはたいへん厳しかったのですね。徒弟制といっても差し支えないかと思います。特に山崎朝雲は高村光雲の高弟で、当時の木彫界では官展系のたいへんな実力者でありました。彼は、弟子たちが独立前に、創作をしたり作品を発表したりするのを禁じていました。しかし技量的には抜群であった朝山は、きっと師匠から見れば生意気だったのだと想像します。彼は、独立を目前にした頃には、皆が寝静まったあとに押入に籠もり、ろうそくの灯りで先ほど触れた「問答」という作品を制作していたと言うことです。

 この作品を、朝雲が関連する官展系の美術展に応募したところあえなく落選となります。しかし、この作品の素晴らしさを理解していた平櫛田中は、実業界の大物・原三渓に紹介し、結局彼の所蔵となります。また再興院展に無鑑査で迎え入れられることにもなりますが、たぶんこれも大観や田中らの後押しによるものと思います。この時点で、すでに朝雲と朝山の確執は深いものになっていたのでしょう。

 このあたりの事情は、福島県立美術館・増渕鏡子氏、小平市立平櫛田中美術館・藤井明氏両氏の論文に記されています。詳細は、本展図録などをぜひご覧下さい。

*「和気清麻呂像(原型)」(1940以前)

 今ご覧のこの像は、ブロンズ像の試作として桧で作られた16センチほどの小品です。複雑に木を寄せ、気に入らないところを削り取って別の木を嵌め込んだあとが随所に見られ、朝山の自由自在な制作技法の一端を窺うことができる貴重な作例です。

 木彫家である私も、「削りすぎたら全部やり直しでしょう?」とよく心配されることがありますが、実際の制作途上では気に入った形を求めて新しい木を接いだり修正したりは日常茶飯事のことです。平安末期や鎌倉時代の端正な仏像も、解体してみるとたいへん複雑に木を足している場合がよくあります。今も昔も、木彫家は繊細にして大胆に木を扱って造形していたわけですね。

「山風」(玄々時代)
「蒼鷹」(玄々時代)
「栗鼠」(玄々時代)

*「山風」(玄々時代)、「蒼鷹」(玄々時代)、「栗鼠」(玄々時代)

 1948年ころから玄々を名乗ります。そして、動物を主題にしたきわめて完成度の高い彩色彫刻を生み出しますが、いささか形式主義に陥った感は否めません。今回の回顧展を「佐藤朝山展」とするのは、朝山号を返上した本人には不本意であるかも知れませんが、朝山時代のしごとがもっとも脂の乗りきっていたことを考えれば当然といえるでしょう。

朝山の書

*朝山書状

朝山は、実に達筆であります。田中先生も達筆でありましたが、朝山もそれに負けない能筆家でした。いま、これだけの字や絵を書ける美術作家は、皆無といっていいでしょうね。

 ずいぶん前になりますが、彼の木彫作品を見せて頂いた際にその桐箱の署名を見る機会がありました。まるで漆で書いたかと思うほどに粘り気ある墨痕は、高蒔絵のように盛り上がっていました。気圧されるとはこういうことかと思うほど力強い署名でした。彼の強烈な人格や酒癖などに関わる多くの逸話を知らなくとも、あの署名だけで真に天才と呼ぶにふさわしい人物であったことが窺えました。

「神狗」(1945創作、本像はその後再制作)

*「神狗」(1945創作、本像はその後再制作)

 佐藤朝山は、寺社建築に装飾彫刻を施す「宮彫り(みやぼり)」の家の三男として福島県に生まれています。日光東照宮を思い浮かべればわかるように宮彫りのテーマは多種多様であり、華麗な彩色と漆工芸や飾り金具なども用います。彼の卓越した彫技と材料に関する豊富な知識、そして多くの職人を統率した棟梁気質は、宮彫り師の血のなせる事とも理解でき、近現代の狭量な芸術家観には納まりきらない人だったのです。本展にも「山風」「栗鼠」「鷹」などたくさんの動物彫刻が出品されていてとても楽しく見てまわれます。その緻密な装飾的完成度と完璧な技量は凡百の彫刻家の追随を許しません。とりわけこの「神狗」は古典を知り尽くした芳醇な感性のみが到達できる傑作中の傑作だと思います。

 なお「神狗」像は、1945年に名古屋の熱田神宮の日本武尊神社のために制作したものが、名古屋大空襲で焼失したため戦後にこの像を再制作し、現在は朝山が晩年を過ごし、息を引き取った妙心寺大心院に所蔵されているものです。

三越「天女(まごころ)の像」(1960)
*日光陽明門

 東京・日本橋三越1階ホールに屹立する「天女(まごころ)の像」は、みなさん、ご記憶にありますか?じつは案外、知らないとおっしゃる方が多いのです。百貨店にいらっしゃると、だいたい俯いてショーウインドーをのぞきこんで、あまり上を向かれることがないからでしょうね。

 それくらいこの像は巨大です。しかも中心の「天女」さんよりもその周りのイソギンチャクのお化けのようなものばかり目に入って、全体のボリュームに圧倒されて主題がつかみにくい作品であるのは事実です。よく比較される日光東照宮の陽明門と印象はダブります。

 しかし目を凝らして観察すると、確かに見事な作品です。

 1960年に完成したこの像は、朝山作品ではなく佐藤玄々の作品になります。そして「天女」と書いて「まごころ」と読ませています。構想の段階では「技芸天」と呼ばれていたようですが、いつのころから「天女」になり、最後には玄々自身によって「まごころ」とふりがなを打たれるようになりました。

 株式会社三越創立50周年記念事業のひとつとして当時の同社社長・岩瀬英一郎氏の依頼によって約10年の年月をかけて制作されました。岩瀬社長は相当の豪傑であったようで、戦後、戦災にあった三越をみごとに復興させたひととして語りぐさになっています。今の三越の赤と白の包装紙を抽象画家の猪熊源一郎に依頼してデザインをさせたり、今も続く日本伝統工芸展を開催したり、美術工芸フロアを充実させたり、美術工芸や文化を百貨店経営の中心にすえたスポンサー的経営者であったわけです。

 日本では、百貨店に美術画廊があり、催事場では始終りっぱな美術展が開かれているのはあたりまえに思いますが、デパートの本場であるヨーロッパやアメリカでは、あり得ない現象です。美術展は美術館で観覧し、絵や彫刻を買うのはアートディーラーから買うのが当たり前なのです。

 百貨店が美術作品を扱うというのは、日本独特のスタイルですが、三越や高島屋では100年も前から美術部というのが存在しています。

 元々は呉服商が百貨店になり、茶道具や骨董を扱っていたことがその理由だと思いますが、近現代日本において百貨店が文化を発信し普及させた功績は極めて大きいと思います。わが国の名だたる美術作家や工芸家の大半は百貨店美術部にたいへんお世話になってきたわけです。かく申す私も、百貨店の美術部に育ててもらったといっても過言ではありません。会場に三越の美術部の方のお顔があるから申しあげるわけではありません。

 この像は、大きいです。近代以降に作られた木彫作品のなかでは最大級のものです。

 総高は10.91メートル(36尺)、総幅4.39メートル(14.5尺)、総重量6.75トン(1800貫)、天女身長は2.73メートル(9尺)、

天女が瑞雲に包まれて今まさに花心に舞降りんとする瞬間を表現しています。像の背面を覆う「彩雲」には48羽の「天鳥」が舞い、上部には宝珠が光り輝いています。

 材質は、樹齢500年といわれる京都府貴船の山のなかで伐採した檜の大木を用いています。そして、妙心寺境内に「阿吽洞」と名づけた巨大な仮小屋を設け、そこで制作を行いました。この像の制作の様子は、先ほども引用させて頂いた福島県立美術館の増渕鏡子氏による論文「佐藤朝山の三越《天女像》について」(「芸術学の視座」(勉強堂)掲載)という労作がありますので、興味のある方は是非ご覧下さい。

 像の中には鉄骨構造の心材が入っており、そこに無数の部分品がボルトや木ねじで取り付けられているわけです。

 また彩色には、膠と顔料という従来の彩色技法ではなく、当時の先端材料であったブチラールという合成樹脂を基底材に顔料を溶いて、漆や七宝焼きのように見える部分にも積極的に合成樹脂を使っているようです。このブチラール樹脂というのは無色透明でアルコールで希釈することができる素材で、最近まで仏像の修復などにも多用されていたものです。

 百貨店ホールというのは、温度や湿度の面で、彩色像にはきわめて過酷な環境です。従来の膠を用いた彩色や漆塗りでは、数十年で剥落や亀裂が起きても不思議はありませんが、この像の彩色は今もしっかりと残っています。合成樹脂の使用は、建築装飾の彩色を知り尽くした朝山ならではの選択であったような気がしてなりません。

 十年にも及ぶ制作期間のうち、完成するころは72歳という年齢やお酒の影響もあるでしょうが、足腰がかなり弱っていたために、実際の制作や組み立て作業は延べ数十人に及ぶ弟子や職人が携わりました。設置の時にも朝山は椅子に座りマイクで足場の上のスタッフに指示を出していたそうです。

 当初の計画では、ホール中央の階段の左右にもっと小さな像を一体づつ設置する予定であったそうです。吹き抜けホールの脇役であったわけですが、いつのまにか主役になってしかもこんな巨大な像になってしまった。制作費も当初の覚書では400万円であったものが、最終的には数億円、50年前の数億円ですよ!そこまで膨れあがったそうです。今の貨幣価値でいえば50億円以上の金額です。作る方も作る方ですが、やらせる方もやらせる方です。

時代の勢いとでもいいましょうか。しかし、彫刻家なら一生に一度はやってみたい大仕事ですね。

 朝山はこの作品の完成を見た3年後に、先に亡くなったみちの夫人のあとを追うように妙心寺で静かに息を引き取りました。

 この「天女の像」の破天荒なまでの豪華さは、朝山芸術の集大成といえます。そしてわが国の近代彫刻の頂点を示し、宮彫り師として大輪の花を咲かせました。しかし60年代以降は、作家の技量や工芸的要素を排する観念的な美術がもてはやされる時代になり、この作品は無視され続けました。しかし近年、ようやく佐藤朝山とともに天女像を正当に評価する動きが出てきたことはたいへん喜ばしいことだと思います。

「天女(胸像)」(1960)

「天女(胸像)」(1960)

 今回の展覧会に出品されているこの像は、三越像の頭部を石膏で型取りしたものです。完成像は11メートルの巨像のため顔を間近に見ることはできませんが、この複製でじっくり観察することができました。彩色が施されない緻密な細部や造作を見ていますと、朝山のただものでない造形力にため息が出ます。

 皇居お堀端の和気清麻呂像と三越「天女の像」のほかに朝山作品の実物を目にする機会は、ほかの彫刻家に比べ極端に少ないのは本当に残念なことです。これだけの作家でありながら、個人美術館はもちろん、常時公開されたコレクションさえほとんど存在しないからです。それは、戦災で多くの代表作を焼失したことと、数少ない現存作品もあまりにも魅力的であるために所蔵者が秘蔵し滅多に公開されないからだと聞いたことがあります。今回の展覧会は、関西のあるコレクターの収蔵作品が中心に構成されていると聞いております。準備段階で、美術館では所在不明の像を熱心に探されたようですが、新発見は出てきませんでした。私も会場を一巡し、素晴らしい作品群に感動しながらも、しかし「やはりこれだけしか残っていないのか」というのが正直な感想でもありました。文字通り幻の作家といっていいでしょう。

 長いあいだ、佐藤朝山は作品を見ることはおろか、作品集を入手することすらたいへんむずかしいことでした。初期の貴重な作品が収録されている「朝山彫刻集」(1935年、日本美術院発行)のほか、図録「天女完成記念 佐藤玄々名品展」(1960年、同展運営委員会発行)、「佐藤玄々作 天女写真集」(1960年、三越発行)などが残されていますが、これらも私の手許には複写したものがあるだけです。

 半世紀ぶりという朝山の回顧展が、彼のよきライバルでありお互いにその技量を認め合った平櫛田中ゆかりの美術館で相次いで開催されるということは、まことに喜ばしいかぎりです。そして本展の図録は、朝山作品を愛する者のみならず、彫刻を志す者に何よりの賜物となるでしょう。

 その実力と才能に引き比べ、現代の評価があまりにも低くすぎたこの天才にとって、今回の回顧展はその落差を一気に埋める重大な役目を果たしたことは間違いないと思います。

 私は、私の工房や大学の研究室の若いスタッフにぜひこの展覧会を見るように勧めてきました。彼らの大半は、初めて朝山を知り、作品を実見しました。そして、30年前に私が「蜥蜴」を見たときのように、たいへんな衝撃を受けたようです。

 今回の展覧会によって、現代の若者たちが、彼の作品に無垢な感性で触れえたことを私はこころから本当に嬉しく思っています。

 最後になりましたが、この展覧会を実現して下さった小平市と井原市の両田中美術館と関係者のみなさまに心からの感謝を申しあげたいと思います。

 私の話はこれでおわりです。ご清聴ありがとうございました。

(彫刻家、東京藝術大学大学院教授/文化財保存学)

2006.9.


「佐藤朝山展」

2006.9.15〜10.22 小平市立平櫛田中美術館

2006.10.27〜12.10 井原市立田中美術館