興福寺秋の特別公開記念講演会 「せんとくんが教えてくれたこと」

(2008年11月17日)1Page

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 今年の春先から、なにかと話題を提供してまいりましたせんとくんですが、最近は、さまざまな場所で彼の姿を目にします。また元気な着ぐるみがひっぱりだこになって、各地でずいぶん人気を博しているようで、たいへん喜んでおります。今年の流行語大賞にもノミネートされているそうです。おかげさまで、彼のファミリーの鹿坊たちもテレビコマーシャルやCDジャケットに起用されたり、せんとくんと競演したりと、週末ごとに何かのイベントに出演して、予想外の人気者になって、ありがたいことだと感謝しています。

 今日は、そのせんとくんのデザインの背景となったことについて、みなさまにお話をさせていただきたいと思います。


せんとくんの意匠)

 せんとくんのデザインのもとになっているのは、古代インドにおける王族や武士である士族階級(クシャトリア)の装束です。それは、2500年前にインド東北部の、今のネパールに近い小さな王国の王子さまとして生まれ育ったガウタマシッタルーダという青年のすがたです。もちろん彼はのちに、ブッダと呼ばれるようになる青年時代の釈迦です。
 ここで、呼び名の整理をしておきましょうか。
シッダルータさんの生家は、シャカ一族に属していたため、後に「釈迦族の聖者」という意味のシャカムニと呼ばれました。またブッダという呼び名は、真理を悟った聖者という意味で、この時期の他の教団でも用いており、もともとはお釈迦さまのみを指したわけではありませんでした。ですから歴史的には、ブッダということばの方が、お釈迦さまより先にあったということですね。

 シッタルーダさんは成長するにつれ、いのちや生きることの苦しみについて、深く思索するようになって、それを救済できるのは当時の社会秩序を構成していたバラモン教ではないと考えるようになられました。
そして、ついにはバラモン世界の四つの階層社会(司祭階級、士族階級、庶民階級、奴隷階級)からドロップアウトして求道に生きることを願うようになり、王子の立場も、妻やこどもも捨てて、出家修行者というアウトサイダーとして生きることを決意します。当時、出家するということは、今の日本で僧侶という職業を選択することとは比べようもないほど、勇気のいる行為であったことと思います。

 当時のバラモン世界は、古代ペルシア地域(いわゆるメソポタミア地域)に起源を持つアーリア系民族が長い期間にわたってインドに侵入し、先住民のドラヴィダ系民族を支配する形で社会構造がつくられていきました。先住民であるドラヴィダ人は、ヴェーダと呼ばれる神々のたくさんの物語を持っており、そこに宇宙論や善悪の概念を持ったアーリア人の神概念が融合し、宗教儀式を司る階級が支配する形でバラモン教が形成されていったわけです。
 興福寺さまのお像で知られる阿修羅は、アーリア人がインドに持ち込んだメソポタミアのアフラマツダーという光明神すなわち太陽や火の神さまなのです。(アフラとアスラは、言語的な相関性があるそうです。)世界史で出てきたアッシリアという国の名は、阿修羅の国という意味ですし、現在のシリアの国名もアッシリアが語源と聞いています。
そして上層階級のバラモン(司祭)階級やクシャトリア(士族)階級はアーリア系民族が占め、先住民族であるドラヴィダ人の多くは、クシャトリアの一部とヴァイシャ(農工商人)やシュードラ(奴隷)という下層階級となっていました。こうした社会の底辺には、バラモン社会に対する潜在的な反感があったものと思われます。そのことは、バラモン社会に背を向ける釈迦のような自由思想家が多く輩出したことや、仏教と大変よく似た教義や戒律をもち、仏教とふたごの宗教といわれるジャイナ教なども同じ時期に発生して、下層階級から多くの支持を集めたことからも想像できます。

 さて出家するということは、王族が身につけるべき服装を捨て、豪華な冠や胸飾り、腕輪、足輪、耳飾りをすべて外して、糞掃衣という一枚のぼろきれのみを纏い、町中に住むことを拒み山野で修業することです。クシャトリア階級の象徴として高く結い上げていた髻をほどき、罪びとと同じ剃髪をして苦行の道へと入ります。
苦行を続けるうち、ぼさぼさ髪となった髪の毛を、あたまのうえで無造作に縛っただけの姿になります。これがのちに螺髪や肉髻という如来の造形へと変化します。また出家者は、馬や乗り物に乗って移動するのではなく、自分の足でひたすら歩きました。階級制度が確立した社会でこうした行為は、たいへん象徴的な意味を持つことで、釈迦の業績を表した浮き彫り彫刻などでは、事細かに描写され、ガンダーラ彫刻には、こうした釈迦の物語の象徴的な場面がたくさん残されています。

 今お話しましたように、釈迦が王子としてさまざまな思いを持ち、未だ世俗にありながらも、苦しむ人々を救うことを発心し行動していたすがたを「菩薩」と呼びます。
 そして、大願を成就し究極の真理を悟った「仏陀」としての姿を「如来」といいます。上座部系の仏教観では、ただひとり如来としての釈迦がおられるだけで、阿弥陀如来も薬師如来も大日如来も存在しません。
それから、釈迦の教えにしたがい、世俗のすべての虚飾を取り去った出家者を「声聞」や「阿羅漢」(釈迦の直接の弟子や教団上層部の出家者)といい、剃髪した出家者のすがたである「僧形」の原形です。お地蔵さまは、菩薩でありながら、僧形をしています。
 出家することなく、世俗を生きながら単独で修行し真理を究めたひとたちを「縁覚、辟支仏や独覚」と言います。大乗仏教では、「利他行」を行わないこうした立場をあまり高く評価しないようです。

釈迦のすがたが彫刻として造られるようになったのは、その死後五百年も経ってからのことですので、生前の釈迦の容姿を正確に今に伝えている造形物は一切ありません。お釈迦さまがご自身で自分のことばを文書として残すことがなかったように、その姿を再現して造形することも許さなかったのだと思います。お釈迦さまは、自分の死後にお墓を作ることすら禁じたと言います。もっともそれは守られず、八箇所に遺骨を納めるストゥーパ(半球形の饅頭形に尖塔がついた建造物。仏舎利塔、卒塔婆)が造られ、その後、アショカ王の時代に遺骨が八万箇所に分配されてインド全国にストゥーパが作られたといいます。興福寺の美しい五重塔も、もともとは、お釈迦さまの遺骨、すなわち仏舎利を納めるストゥーパが源流なのです。

ほとけの特徴をまとめた三十二相八十種好がありますが、これはのちの世のひとが、釈迦の尊厳や超人性を誇張するために創作していったものといえます。釈迦が亡くなってしばらくは、釈迦の事跡をあらわす浮き彫り彫刻がストゥーパの周りを取り囲むように造られましたが、そこには釈迦の姿はなく、足跡や輪宝、蓮の華でその存在だけを示していました。仏足石は釈迦を表現した古い形式の名残です。もちろんその頃には、ほとけの三十二相という考えもありませんでした。
 また釈迦の容貌は、ガンダーラ仏のようなアーリア系の彫りの深い顔立ちを思い浮かべますが、実際はドラヴィダ系のマトゥラー仏のような顔ではなかったかという説もあります。


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