08.2.23 
演題「奈良のみほとけたち」

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 本講座には、いままでたくさんの立派な先生方がご講演をなさっておられますので、すでに充分に奈良についてご存じの方も多いことと思います。
 したがって、私が今日お話し申しあげることは、いささか怪しげな箇所もあるかと存じますが、どうか寛容のこころを以てお聞き頂きたいと思います。また、あんまりよそでお話しにならない方がいいかも知れません。てきとうに聞き流していただけると、私も大変気が楽であります。

日本人のこころの原風景・奈良)
 奈良のお話の前に、私が生まれた大阪のお話をさせて頂きたいと思います。何故かといいますと、現在の奈良県や大阪府という行政上の境界線ではくくれない、古代のひとびとの動きから追いかけてみたいからなのです。
 昨日(22日)ですか、神宮皇后の陵とされる奈良市山陵町にある前方後円墳が、考古学協会によって天皇家の陵墓として初めて調査が行われました。まあそんなこともありまして、ちょうどいいタイミングですので、今日は、仏教が入る以前のヤマト王権、すなわち古墳時代からお話しを始めようと思います。

 大阪は、摂津、河内、泉州の三つの国からなっておりました。
 私は摂津の国の大阪市阿倍野区の生まれです。阿倍野区は、古代の豪族・阿倍氏が住んでいたところです。阿倍氏は、古代天皇家から派生したと考えられる豪族で、推古天皇の時代には蘇我氏の側近として阿部の某という名前も見られます。将軍で有名な阿倍比羅夫、遣唐使で知られる阿倍仲麻呂なんかがいまして、7世紀ころまではヤマト王権の中心的豪族であったようです。しかし8世紀には、中臣鎌足に始まる藤原氏という新興勢力に押されて蘇我氏とともに衰退していきますが、平安時代には、「阿倍(こざとへんのあべ)」が「安倍(安らかに倍する)」と表記が変わりまして、安倍清明など陰陽師の家系としてその名を残します。現代にも、アベさんは、たくさんいらっしゃいます。

 阿倍野区のすぐ北隣は天王寺区といいます。ここには推古天皇が発願され、聖徳太子が建立された四天王寺があります。このお寺は、蘇我氏の飛鳥寺と並んで、記録に残る日本最古の佛教寺院といわれております。天王寺には黒門市場があり、天王寺公園には動物園や美術館もありますので、東京でいうと上野、浅草地域という感じのところです。

 また天王寺の隣の大阪市中央区には、大阪城があります。ここには15世紀末頃に浄土真宗の石山本願寺という要塞のようなお寺があったところです。またその下には、難波宮という7〜8世紀にかけての宮殿跡が発掘されています。そして「日本書紀」には、神武天皇が日向の国から瀬戸内海を通って紀伊半島で最初に上陸したところであると記されています。

 この大阪市の中心部は上町台地という高台で、ひじょうにしっかりした岩盤のうえにあります。だから石山本願寺の「石山」という名前の由来になっているわけです。古代には大阪湾の海岸線がずっと内陸まで入り込んでおり、ここが海に面した戦略拠点として重視されていましたし、あとで触れることになりますが、難波から飛鳥まで通じる古代の大動脈・竹内街道の起点にもなっていました。

【堺市周辺地図】(反正天皇陵、仁徳天皇陵、方違神社、浜寺、大和川、住吉神社)

 私は、小学校から高校生にかけて、大阪市を南に下って大和川を挟んだ対岸の堺市で育ちました。摂津、河内、泉州の三つの国の「境」にあるので堺というようになったそうであります。

 堺は、旧石器時代の遺跡や考古遺物が出土するようなたいへん古くから人々が住んでいた土地です。私が通った中学校は、四つ池遺跡群という大阪でも最大規模の弥生時代の土器生産地の遺跡の上にあり、校庭を工事するたびに、ざくざくと土師器や須恵器のかけらが出てきていたのを覚えています。しかし、ベビーブームの影響で校舎をどんどん建てなければいけない時代、また高度成長期には開発最優先でしたから、発掘調査のあとすぐに学校や宅地や道路用地として造成してしまい、遺跡は完全に消滅しております。この遺跡を保存して、弥生時代の遺跡公園にでもしていれば、堺市の観光の目玉になっていたと思います。まことにおしいことでした。

 堺の港は、古代から豊臣秀吉のころまで、わが国でもっとも重要な港湾都市でした。今の大和川をはさんでこのすぐ北隣には、港の神様である住吉神社が祭られています。14代仲哀天皇の后・神宮皇后が新羅に出兵した時に港を守る役所を置き、航海の安全を祈願するこの神社を遷座したという伝説もあります。

 実はこのころ、大和川はもっと北の方を流れていました。しかし16世紀に豊臣秀吉が、たいへん豊かであった堺商人の経済力を畏れ、大坂城近くの難波の津―今の大阪港ですが―を発展させるために、わざわざ大和川の河口を現在の堺湊のすぐそばに付け替えたために、またたくまに土砂が堆積し湊の機能は失われてしまいました。

中世まで、日本の港は「三津七湊(さんしんしちそう)」といいまして、三つの津〜堺の津、博多の津、伊勢の津、そして七つの湊〜越前湊、加賀湊(白山市)、輪島湊、越中岩瀬湊、越後今町湊(直江津)、秋田の出羽湊、津軽の十三湊という十の交易港が北前船の流通基地や朝鮮半島との海外交易基地として大変栄えました。明治維新以降は、海外貿易の拠点として、横浜や神戸、名古屋などが近代的貿易港として整備され、三津七湊(さんしんしちそう)は衰退してしまいます。

ちょっと余談ですが、今、ミナトのはなしをしたついでに、ヤマトという名前について考えてみます。ヤマトとは、どういう意味なんでしょう?

「ト」は、戸、門という字があてられる「入り口」という意味です。ミナトは「水の戸、水の門」と書いて海や川、湖に出て行く水への入り口です。海や川の浅瀬の入り口はセト、横浜の保土ヶ谷の保土は、「火の戸」で竈のことです。竈状になった谷の地形からきているのだと思います。

そうするとヤマトは、「山の戸」「山の門」と書けば、山の入り口という意味になると思います。山口県の山口などもヤマトと同じ意味ではないでしょうか。

 さて私が育った堺市の高台であるこの一帯は、ヤマト王権期の大小100数十基の百舌鳥古墳群があります。一番大きな17代・仁徳天皇陵(百舌鳥耳原中陵)や、私が通った高校のすぐ向かいには18代・反正天皇陵(百舌鳥耳原北陵)なんかがありまして、古墳が町の景観の一部に成っているようなところでした。羽曳野市にある16代・応神天皇陵(誉田御廟山古墳)なども大きい前方後円墳です。ヤマト王権の力が強大化した5世紀から6世紀中頃、すなわち日本が仏教を受容する直前、文字によって歴史が書かれはじめる寸前の日本史黎明期のことです。

 このように、堺のひとびとは古墳に対してなんの違和感もなく、いやそれどころか畏敬の念を抱き続けて千数百年の時を過ごしてきたわけです。もっとも文化財保護が今ほどやかましくなかった頃は、天皇陵に指定されていない名もなきちいさな古墳の上で畑を耕して野菜を作っているというのは珍しいことではありませんでした。しかし戦後の高度成長期には、そういうちいさな古墳の大半が破壊され造成されて、宅地化してしまいました。大阪や堺が、栄えなくなったのは、そうしたご先祖のお墓や遺跡を台無しにしてしまったからではないかと、密かに感じています。

 明治時代のはじめのごく短いあいだ(1869〜1881)ですが、「堺県」という県がおかれました。それには、なんと堺から河内と泉州および今の奈良県全域までも含んでいました。すなわち、当時のひとびとの感覚では、奈良と大阪は江戸幕府直轄の天領でありましたし、ひとつの行政単位とすることにあまり違和感がなかったのではないかと思います。そのあたりを糸口に、お話を進めてまいります。

 堺から東に移動しますと、河内平野があり、二上山、葛城山、生駒山、金剛山という大阪と奈良を隔てる壁のような山地があります。二上山の南にある竹内峠を超えると神武天皇が即位されたという橿原市があり、飛鳥地方に入ります。またそこから真東を見ると、大宇陀や室生、吉野などの山地があり、その先には、なんと伊勢神宮があるわけです。これはおそらく偶然ではないだろうと思います。この東西軸は、太陽の運行軸に沿っているからです。

 この堺から奈良を通って伊勢にぬける道は現在でも阪奈道と伊勢道、国道166号線ですが、古代はほぼこれと同じルートで竹内(長尾)街道と伊勢街道という古代の大動脈があったのです。

 したがって、ヤマト王権のヤマトというのは、竹内街道から二上山へ通じる山の入り口としての、堺から河内平野にかけての古墳密集地帯がもともとのヤマトではないかと私は感じております。

難波大道;難波宮〜上町台地(四天王寺〜阿倍野)〜堺

竹内(長尾)街道;難波〜堺東〜百舌鳥古墳群(4〜5C初頭、反正天皇陵/百舌鳥耳原北陵)・方違神社〜堺市駅〜松原市〜羽曳野市(古市古墳群4〜6C、応神天皇陵/誉田御廟山古墳)〜藤井寺市〜柏原市〜二上山〜葛城〜長尾神社(北葛城郡當麻町長尾)

伊勢・長谷街道、丹比道(たじひみち);長尾神社〜飛鳥〜吉野・壺坂〜伊勢(伊勢街道、国道166)