2007.6.1
三菱UFJ信託 経営者セミナー

「日本人のこころとかたち」

せんとくん 木彫
せんとくん ブロンズ

はじめに)

 ただ今ご紹介にあずかりました籔内佐斗司でございます。

 私は、木を素材にした彫刻家ですが、作品世界の源泉とその技法材料を、わが国の古い仏像におっています。それは、私が二十代の半ばに、東京芸大の大学院で、仏像の修理を中心とした文化財保存と古典研究の仕事に携わっていたことに由来しています。

 三十代になってからは、大学を離れて彫刻家として一本立ちし、二十数年作家活動を続けて参りました。

 ところが四年前に突然古巣に帰ることになりまして、現在は「東京藝術大学大学院美術研究科文化財保存学保存修復彫刻研究室」という舌を噛みそうな研究室を担当しています。したがって彫刻家との二足のわらじを履いておりますが、自由気ままに過ごしていた期間が長いものですから大学の先生の方は趣味と割り切らなければやってられないような場面も多々あります。

さて本題に入る前に、自己紹介を兼ねまして、仏像の修復とはどんなことなのか具体的にご説明しましょう。

これは昨年度に行いました茨城県指定文化財の西念寺蔵・阿弥陀如来坐像の修復過程です。

これは修復完成画像ですが、修復前の状況はこのような状態でした。

 えらい違いだと思います。元々このお像は、平安時代後期、宇治の平等院の阿弥陀さまが作られた時代のすこしあとの様式、すなわち「定朝様式」という藤原時代の様式で制作された像でした。室町頃だと思いますが、お寺がたいへん疲弊したときにたいへん傷み、近世に大々的な修復がなされ、現状のような似ても似つかぬ像に作り替えられていたわけです。
解体
当初部仮組み

新補部
彩色

 これを以上のような手順でもって、あまりよくない後世の修復箇所を除去し、失われた部分を造立当初の時代様式で再現して取り付けていくわけです。文化財としての修理では、造立当初の残されている部分の現状を極力尊重して、制作当初の漆下地や金箔がすべて剥げてしまって木地しか残っていないこの像のような場合は、金箔で仕上げたりすることはしません。

 こんなことを、学生や若いスタッフたちと一緒になって、古い仏像の保存修復処置を施すと共に、そうした人材を育成しているわけです。

日本文化の特性について)

 それでは本日のテーマ「日本人のこころとかたち」に入らせて頂きます。

「こころ」とは、世界観、宗教観、倫理観などの価値観や感情のことです。そして「かたち」はそれが元になって具体化された美術工芸や芸術活動のことをいいます。この「かたち」は、文化財という言い方に置き換えてもいいでしょう。

 これらのことをすべて語るには、とても私一人の手に負えるものではありませんし、時間がいくらあっても足りませんので、仏像や木の文化を中心に、私の作品と絡めながら時間の許すかぎりお話しさせて頂こうと思っています。

 わが国の歴史を振り返れば、溢れるような森林資源を背景にして、世界でも有数の木の文化を生み出してきたことは確かです。すなわち、こころを形に表すときに、その材料として木や植物材料を選択してきたことが特徴としてあげられます。

 かつての奈良盆地や周辺の山々は、檜の原生林に覆われていたと想像されます。飛鳥の都や、藤原京、平城京は、みなそこに自生していた檜の大木を伐採して開墾し、その場所にそのまま建造物や宮城を建てたと考えられています。さすがに平城京のような巨大な都を造営するには、奈良盆地の檜だけでは足りなくて、伊賀や信楽の山中まで大木を求めて、おかげであらかた刈りつくしてしまったと言われます。

 ちょっと横道にそれますが、周辺の山々がはげ山になると言うことは、山の保水力がなくなり、平地に水が流れ込みます。平城京は、710年に遷都されてからわずか80年足らずしか首都として機能しませんでした。しかもその間、長岡京や恭仁京などに一時的に遷都されるなど、たいへん不安定でした。その原因は、政情不安などいくつも考えられますが、最大の要因は、都の中心部に水が溜まったために生活廃水の処理が上手くいかなくなって環境汚染が進んだからだと言われています。

したがって、その後の奈良は、興福寺や東大寺がある高台の寺院群は残りましたが、平地にある都市部は衰退し、広大な田園地帯として、また紙漉のほか、綿や麻の晒しなどの水をふんだんに使う地場産業地域へと変貌していったわけです。そのおかげで、奈良が日本の原風景として現在まで残ってきたことを、われわれは感謝すべきかもしれません。

 さきほども申しましたが、古代の日本列島の植生は、山間部が杉・檜を中心にした針葉樹の深い原生林に覆われ、平地は針葉樹と雑木の混交林に埋め尽くされ、水辺は延々と葦が繁茂していたと考えられます。したがって原日本人には、森林の民としての遺伝子の記憶が刷り込まれているといます。その遺伝子の記憶が核となって、日本人のこころ、すなわち文化が形成され、仏像や建築という形になって表れてきたのです。

日本人の文化継承パターンは、「伝世古」)

 ではそのような森林の民としての記憶を持つ日本列島に定住した住民の文化の特性について考えてみたいと思います。

奈良の法隆寺に参りますと1400年前の伽藍のたたずまいのままに、たくさんの仏像が祀られています。

金堂の夥しい仏像や、夢殿の救世観音、宝物館の百済観音など、まだ日本という国が確立する前の古代の仏像が、法隆寺という所蔵者や所有形態が変わることなく人の手から手へと今に伝えられているということは、日本人にとっては当たり前のことですが、世界的に見ると、極めて希なことなのです。しかも、法隆寺にかぎらず、1300年前に造られた東大寺、薬師寺、興福寺はじめ、このような例が山のようにあるということは、世界史のなかではほとんど奇跡的なことなのです。ちなみに正倉院御物は、聖武天皇遺愛の品を光明皇后が東大寺に寄進したものを、明治時代になって東大寺が疲弊したときに天皇家にお返ししたという経緯で、現在の管理者は宮内庁になっています。したがって、あれだけの貴重な宝物でありながら、文化庁が管轄する国指定の国宝や重要文化財には一点も指定されていないというおもしろい現象になっているわけです。

 世界の国々や民族の文化遺産の大半は、ある時期に破壊されうち捨てられ、長い間忘れ去られたものが、ルネッサンス以降になって土のなかから掘り出され、海のなかから引き上げられて、新たに発見されたものが大半なのです。また異民族によって国土が侵略を受けて略奪されたり売り払われたりしたものがいかに多いかは、欧米の美術館や博物館を訪ねれば一目瞭然です。

 このように忘れ去られ土の中から発掘された文化財を「土中古」といいます。それを作りだしたひとびとと、現在それを見る人々には、明らかな断絶があります。それに対し、わが国の文化財のように一貫した伝えられ方をしているものを「伝世古」といいます。

 いまは、仏像のようなものの伝えられ方についてお話ししましたが、実は、伊勢神宮で二十年毎に行われる式年遷宮という建て替えも、建築様式や技術の保存という文化財の継承方法としてはたいへん特殊なものであろうと思います。また1250年間いちども絶えることなく続いている東大寺二月堂の修二会といわれる修行形式も、ある意味「伝世古」と言っていいと思います。世界の王統のなかでも最古といわれる天皇制も、政権の交代に関係なく生き残ってきたということも、やはりわが国の文化継承の特異なパターンといえると思います。

 そして、わが国の文化財行政のなかには、無形文化財という制度があります。いわゆる人間国宝です。技能や技術を保持している人や団体を文化財として指定し保護するという制度は、わが国が世界に先駆けて提唱し、世界に広まった誇るべき制度です。

 ここではぜひ「伝世古」ということばを覚えておいて下さい。

今に生きる縄文のこころ)

 現在、日本人が単一民族であると考えておられる方は、少なくなったと思います。遺伝学的に見ても、非常に複雑な遺伝子の交配が行われていることが証明されていますし、アジア各地を旅すれば、知り合いの誰かにそっくりなひとびとにあちこちの国で出会った経験をお持ちの方も多いと思います。私のなかにも、みなさんひとりひとりのなかにも、アジア、ユーラシア、オセアニアなどのたくさんの民族の遺伝情報が混じり合っているわけです。

 ですから縄文時代と弥生時代という単純な民族の交代があったかのような古代史はもう過去のものだと思います。縄文時代に属する遺跡から稲作や高度な焼き物がでてきたり、弥生時代の遺跡から大陸の影響を感じる建築遺構や埋葬跡が発見されたりしています。

 また6世紀に朝鮮半島から仏教が渡来する以前の神道儀礼や古代神話などには、あきらかに古代中国の自然観である道教の影響が強く感じられます。このことは、おそらく明治以来、政治的に無視されてきたために、殆どの人が神道はわが国独自の宗教であると考えていますが、あきらかに道教の神仙思想が底に流れています。

 このように西から東から、南から北から絶えることなく営々と日本列島にさまざまな人々がやってきて定住し、混交を繰り返して来たわけです。

 日本中から、「ベ、ベツ、ブ」「ナイ」のような古代のアイヌ語を起源とする地名が散見されます。「ア」「ワ」「ナ」「ハ」「キ」「ヒ」「ミ」「メ」などの短音のことばは、朝鮮半島の言語が入る前の原日本語と考えられており、このような言葉が現代の日本語として生きつづけているということは、新しく渡ってきた民族が決して先住民を駆逐殲滅したわけではないことを物語っています。

 もうひとつの例証として、霊木信仰があります。

 平安時代初期に作られた大きな一木造りの仏像には、木心部分が焼け焦げているものをときどきみかけます。私ははじめ、火災に遭ったものと単純に考えていました。しかしそれならば表面が焦げるはずであるのに、木心に彫刻面より前に焼けたとしか思えないような焦げ目が付いているのです。種を明かせば、これは大きな木に雷が落ちたものなのです。それを神が降臨した木として信仰されていたものを、仏教がはいってきたときに、そのご神木を使って仏像を作ったと考えられるのです。

このような像は、関東以北に多く見られます。奈良や京都の朝廷政権が東国の国々と接触し併合していく際に、先住民が信仰していたご神木を使って仏教を広めていった過程を見る思いがします。

 また「山川草木悉有仏性」とか「草木国土悉皆成仏」という言葉をお聞きになったことがあると思います。山や川、草も木もわが国土に生きるものすべてに仏性(ほとけになる性格を持っている)といういみで、大乗仏教の本質のように思いがちです。しかしこれはおもに天台宗系の山岳宗教が広めたわが国仏教特有の思想なのです。おなじく山の仏教である真言宗とは、この点で微妙な相違があるように聞いています。唐の純粋な密教を学んできた空海と、密教以前の神道の影響を受けた雑密を元にする最澄との違いではないかと私は考えています。もちろん、天台宗宗祖の最澄がこのような自然観を持つにいたったのかをひとことでいうことはできませんが、日本列島に住んできたひとびとが持っていた山の宗教を色濃く反映しているのだとと私は思っています。

 したがって、わが国の仏像や神像のような神聖な像は木にこだわって作られるようになったのだろうと思います。ちなみに、お隣の朝鮮半島は石と金属、中国は粘土と金属、石などを用い、木の仏像の割合はたいへん少ないのです。

日本人の宗教観)

 神道の話が出ましたので、日本人の宗教観について考えます。

 私たちは一般に日本の「神さま」を単純に「ゴッド」と翻訳しています。明治時代のまちがった翻訳以来、学校教育でそう教えているからです。

 しかし中国語では「天」をgodと翻訳し、「神」はgodではなく、「精神」や「神経」という言葉からもわかるように目に見えない精霊の一種、英語でいえばspirit(霊)の一種になるそうです。ですから神概念を別のことばで置き換えれば「こころ」や「魂」の「たま」にあたると思います。日本でも、もちろん昔はそう考えていたのです。安土桃山時代、キリスト教は「天主教」といい、GODを「天主さま」といっていたことからもわかるように「GOD」は「天」ときちんと理解していたのです。もっと言えば、仏教で「餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天」のなかの「天」だと理解していたのではないでしょうか。人として死んだあと、ひとつ上位の天界に生まれ変わる手段としてキリスト教信仰が広まったのだと私は考えます。戦乱に明け暮れ、規制の仏教に救いが求められなかった人々の救済の道として、おもに民衆が飛びついたのだと思います。ちょうど、平安時代末期に末法を迎えた釈迦の浄土から阿弥陀浄土への往生を願った藤原貴族と同じだったのです。

 ちなみに、死んでから「天国」へ昇るのはキリスト教徒です。仏教徒は「浄土」へ還る、または往生という平行移動するのです。行き先を間違えないようにしっかり覚えておいて下さい。

 次のおはなしでも、古代の「神々(かみがみ)」をspiritとして考えてまいりますので誤解のないようにお願いします。

 人とものとの関係は、その精神性に強い影響を与えます。よい石材を産出する地域では石に絶対的な信頼を置く文化が育ちます。中国のように土をすべての根源とする文化もあり、牧畜や狩猟が盛んな国では獣を中心にした文化が育ち、毛皮や毛織物や皮革をこよなく愛します。そして木や草花に恵まれたわが国では、身の回りのものから造形表現まで徹底的に植物素材にこだわり、それらに安らぎを覚える精神文化が育ちました。

 愉快な笑い話に、ギリシアの庶民の夢は、浴槽を色鮮やかなタイル貼りにすることだそうです。かの国は、ご存じのように大理石の文化圏ですから、庶民の家でも浴槽はみごとな無垢の大理石で作られています。もちろん大理石が安く手に入るために、たくさんのエネルギーを使って工業生産されるタイルで浴槽を覆うことは大変な贅沢なのだそうです。大理石と聞いただけで豪華と思ってしまう日本人から見れば、価値観が逆転しているわけです。

 私たちのこの日本列島が、活発な火山活動と地殻変動を繰り返したせいだと思いますが、古代の日本人は大地を活力に満ちた巨大な生き物と考え、山そのものをご神体にしました。古代歌謡とされる「君が代」は、細石(さざれいし=小石)が巌(いわお=巨大な岩山)に成長する悠久の時間を謳っているわけです。そして山の中の岩や巨木、ほとばしる川や瀧にも神を見、オオカミやクマや小さな動物たち、そして虫や草花にさえも神々が宿っていると考え、これが縄文時代から続く日本人のこころの原点を成しています。

 6世紀半ばに朝鮮半島から金色に輝く仏像が、初めてもたらされた時、これを異国の神として畏れを以て祀ったと日本書紀にあります。

 その後、仏像の背景にある世界観を学び、今まで自分たちが信仰してきた八百万の神々に活力を与える源が、宇宙そのものの「毘廬舎那仏」と解釈した天平びとの柔軟性を、私はとても好ましいものに感じます。また空海がもたらした密教で、この国土に営まれるすべての現象を司ってきた神々と仏教とを論理的に共存させる「神仏習合」に行きついた「いにしえ人」の度量にも敬服します。明治初めの狭量な神仏分離令までの千数百年間、いやそれ以上の年月、こうした世界観は日本人のこころの支えであり続け、柔らかく豊かな日本文化の源泉となっていたわけです。

 宗教を問われたときに、多くの日本人が「無宗教」と答えるそうです。残念なことです。もし今日お越しのみなさんのなかですでに特定の宗教に帰依しておいででない方がいらしたら、これからはぜひ「日本の仏教」または「やまとごころ」を持っていると胸を張ってお答えになることをお奨めします。

日本人の美学は「わび・さび」と「きらきらしきもの」と二本立て)

 日本の美学の代表的なものに、滅びの美学があるでしょう。「もののあはれ」「わび」「さび」といわれるものです。私は、これは、仏教とくに末法思想の影響がつよいもので、日本人本来のものとはすこし離れるのではないでしょうか。そしてかならず、滅びの美学を尊ぶ気持ちと平行して、あるいは交互に表れるものとして、きらきらと煌めくものへの憧憬が必ずあったと思います。これを私は、「天平回帰説」といっています。

それらが如実に表れた時代は、天平時代、平安末から鎌倉時代、東山文化、安土桃山から江戸初期、明治時代、そして・・・昭和元禄、平成バブル経済、いずれも天平回帰と時代といえないでしょうか。

天平時代は、七二九年から七六七年までの三八年間をいいます。七二九年から始まる「天平」という元号のほかに、「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」と目紛しく元号が変わっていることからも、この時代が政治的に激動の時代であったことが想像されます。そして中心となる人物は、聖武天皇と光明皇后であり、最大の出来事は、天平勝宝四年(七五二年)の東大寺大仏開眼供養でした。

三八年間といいますと、現代史では日米安保条約が調印された一九五一年から、バブル景気まっさかりの一九九〇年までの年数にほぼ匹敵します。私は、天平時代を考える時、戦後の日本が、冷戦構造のなかで訪れた復興景気と経済成長時代からバブル景気を経て、公害や環境破壊と経済の停滞、社会不安などそれまでのさまざまなつけが一気に噴き出してきた最近までの軌跡ととてもよく似ているように思います。

七世紀は、超大国「唐」に後押しされた新羅によって朝鮮半島が統一の方向へと動いた時期です。半島の南端にあり大和朝廷と極めて近い関係にあった百済が、玄界灘に押し出されるように滅亡したのが七世紀の後半でした。この敗北によって、百済王朝と強く連係しながら国づくりを進めてきた大和政権にとって、百済より遥かに強く優れた文明があったことを思い知らされるとともに、新羅による侵略の脅威に曝されていることを認識させられたわけで、精一杯の虚勢を張ってでも主権国家としての日本を建設する必要を実感した時期ではなかったでしょうか。戦後の日本が、米国に追い付くことに明け暮れたように、当時の天平政権も唐の長安そっくりの平城京を建設し、行政機構もそのまま移植したことは、日本史でお馴染みのことです。

しかし平城京の造営やあいつぐ大寺院の建設など天平バブルは、最近のわが国とおなじように深刻な社会問題を生みました。巨大事業にともなうインフレや、労働者の都市集中と農業生産の停滞、大仏鋳造に関わる銅の精錬や鍍金作業を原因とする重金属公害の発生、木材資源の枯渇、そして社会基盤整備の遅れによる生活環境の悪化など、その後遺症は平城京を捨て平安京へ遷都せざるを得なくなるほど深刻であったことは、杉山二郎氏の「大仏以後」(学生社)によっても詳しく知ることができます。

 国を開き交易を盛んにするということは、いいことだけが起きるとは限りません。文物とともに病原菌や害虫も入ります。今まで経験したこともなかったようなはやり病が頻発し、地方豪族の反乱とともに大きな社会不安の原因になりました。疫学的知識のなかった当時は、祟りや怨霊に原因を求め、解決策を仏教に頼ったわけです。このことによって日本の仏教が、釈迦の哲学的思惟ではなく、災を除いたり現世利益を求める祈願型信仰から出発し、その後の日本における仏教の信仰形態を決定づけたともいえます。日本人が、人間としての釈迦の思想を知るのは、鎌倉時代に禅宗がもたらされるまで待たなければなりませんでした。

天平以降の日本史を概観すると、わが国は外部の文化を導入する「開国」の時期と、その文化を咀嚼し熟成させる「鎖国」の時期が交互にやってきています。

開国の時期とは、天平伽藍を復興させた鎌倉時代、北山文化が栄えた室町初期、ヨーロッパ文明とはじめて出会った安土桃山時代、そして文明開化の明治時代です。面白いことにその時期の権力者の多くが、まるで聖武天皇が憑依したかのように、大仏や巨大建造物を造営しています。多分、昭和中期から平成初めにかけても、後世の歴史家によって同じ評価が与えられるのではないかと私は思っています。

天平時代は、行政組織や信仰形式のほかに美術工芸の分野でも、わが国のその後を決定付けました。東大寺や興福寺をはじめとする南都の寺院に残る諸尊のほか、正倉院御物の素晴らしさは、歴代の造形家にとって、追いつくことのできない虹のような存在です。

天平時代の遺品を見るとき、なんと素晴らしい才能が当時の日本に住んでいたことかといつもため息がでます。ほんとうに奇跡のようなできごとです。それらは、日本の美術工芸に携わるすべての末裔たちの永遠のお手本であり、自分の拠って立つところを見失ったときに還っていく故郷のようにも思えます。

このほかにお地蔵さまのようなおぼうさんの姿をした僧形もありますが、これは仏像では地蔵だけで、あとは僧侶の肖像彫刻です。

そのほかに天部といって、四天王や仁王さま、またさまざまな異教の神々の像があります。

木の文化は日本のこころ)

 西行法師が読んだ「願わくは、花のしたにて春死なむ、その如月の望月のころ」という歌が、私は大好きです。旧暦の如月の望月(満月)のころというのは現在の3月中旬でしょう。春まだ浅いころの走りの桜を詠んだものです。現在では2月の中旬といえば2月14日のセントバレンタインデーのことになりますが、ここで歌われているのはその翌日の2月15日のことですが、この日はなんの日かご存じですか? お釈迦さまが涅槃に入られた日、すなわち釈迦のご命日です。西行は、この日に花に見守られて死んでいきたいと歌ったわけです。

 この歌に代表されるように、私はすべての日本人にとって桜に対する思い入れは特別だと信じていました。

 ところがだいぶ前のはなしですがこんな話がありました。

 私の友人に、東京の下町とパリを半年ごとに行き来していたたいへん親日的なオランダ人の年老いた彫刻家がいました。十年ほど前のある日、彼がひょっこりやって来て「パリに帰る。もう日本には住みたくない」と言いました。理由を尋ねると、彼の答えはこうでした。「自分のアパートのそばに大きな桜の木があって、毎年4月になると見事な花を咲かせ、春の訪れを知らせてくれ、日本にいることの喜びを感じさせてくれていた。先日突然、地主がその木を切り倒して駐車場にしてしまった。それは、近所の住民から寄せられる落ち葉と毛虫の苦情に嫌気がさしたのだという。自分はそれを聞いて、もうあの町に住む気がしなくなった」と。私には、彼を引き留める言葉が見つかりませんでした。

 桜の寿命は、ひとの一生とよく似ているということを聞いたことがあります。植え替えの時期は10〜15年くらいの順応性の高い時期を選び、その後はぐんぐん成長し、30〜50年くらいのものはもっとも活力があり花を一番たくさんつけます。60年を過ぎる頃から、徐々に免疫力が落ちてきて病気や虫の害を受けやすくなる。老木の幹にこぶこぶや苔が生えているのは人でいえば腫瘍や皮膚病のようなもので、免疫力が落ちた木だということを聞きました。まるで人の一生を見ているようです。

 毎年春にみごとな花をつけてくれる桜の樹を見上げながら、日本人は今年も無事に冬を乗り切り、春を迎えられたことを感謝して来たのではないでしょうか。落ち葉や毛虫がいやで、桜を切り倒してしまうひとびとの感性を悲しく思うのは私だけでないことを祈っています。

さいごに)

 日本人のこころをかたちにしてきた「木」、その木で作られたものは、物理的にきわめて脆弱です。私たちが、受け継ぎ守り育てていかなければ消え去るものです。そしてそれは私たちにしかできない責務なのです。現在、「木の文化」は、日本人のこころの分野から日常生活全般に亘り消え去る寸前にあります。また「木の造形」は、技術者の保護育成にとどまらず、林業から消費者までの総合的な大計を緊急に必要としています。すなわち、「日本人のこころとかたち」が風前の灯火であるといえます。

 日本人が、「森林の恵み」を放棄して「石油と鉄」を資源にしたことは、20世紀後半に経済的な大繁栄を齎しましたが、同時に「日本の文化」と「日本人のこころ」を捨て去ることにもなりました。今、私たちは「コンクリートと合成樹脂の文明」から「木の文化」へと回帰すべき時期にあると思います。天と地のあいだに介在した山と森の木々のたいせつな役割を思い出すことは、日本の文化といにしえ人の知恵を取り戻すことにほかなりません。

 さて時間も頃合いとなりましたので、お話はこの辺で終わります。今回の私の話を通じて、ひとりでも多くの人たちが、「日本人のこころとかたち」について考えて頂けるきっかけになることを願っています。

 本日の機会を与えてくださった三菱UFJ信託と経営社セミナーにご参加いただきましたみなさま心よりの御礼を申しあげます。

 本日は、ご静聴ありがとうございました。