1)草創期の興福寺

山根;
 それではまず草創期についてのお話なんですが、興福寺というお寺はいったいいつ、誰がどういう目的で建てたお寺なのか、まず貫主さんからお願いいたします。

貫首:
 私どもが、創建1300年と申しておりますのは、和銅3年、西暦で言うと710年を起点にしているわけです。しかし興福寺の場合、本願(創建の願主)が藤原不比等でございますので、藤原氏の氏寺ということで始祖の鎌足から解き明かすのが私どもの習慣になっております。 
 その藤原鎌足はもとは中臣鎌足といいましたが、有名な大化の改新に関与しています。聖徳太子(574〜622)がお亡くなりになったあと、蘇我氏が非常に独裁的な政治体制を確立していくなかで、それに対抗し排除しようとうする機運ができてまいりました。そして中大兄皇子と鎌足などが協力して蘇我入鹿の暗殺(645)を企てたことはご承知のことですが、そのことを起こす前に、「大願成就の暁には釈迦三尊と四天王を作る」という仏願をなさっておられるわけです。そこからもわかりますように、大変熱心な仏教者であったようでございます。その後、藤原姓を名乗るわけですが、晩年、鎌足が病気を得ました時に、夫人の鏡女王(かがみのおおきみ)が山階(やましな)の陶原(すえはら)にあった私邸にこれらの仏像を安置して病気平癒を祈りながら、鎌足に療養をさせたいということを願われました。いろいろ紆余曲折あったようですが、それが許されまして、山階の自宅に釈迦三尊などを安置したというのが興福寺の原点だといわれております。その場所が先ほども申しましたように山階陶原、今のJR東海道線の山科駅がございますが、その駅の西南あたりだろうという説が最近出てまいりまして、そのあたりで興福寺が出発したということが縁起ではいわれております。 
 鎌足は669年10月16日にお亡くなりになっておられますので、山階寺の造立は当然それ以前ということでございますが、どの程度の規模であったかはよくわからないのですが、私などは自宅の一角を寺院と見なした程度というのが最初のスタートだったんだろうと思っております。
 その頃、日本の都が近江大津にございましたが、鎌足が亡くなってから3年ぐらい経ちますと、都が飛鳥に移ったんですね。それに伴いまして山階寺も飛鳥の厩坂(うまやざか)という地名のところに移転されたということで、その名前をとりまして厩坂寺となったわけです。これも場所がよくわからないんですが、現在は行政区画が飛鳥ではなくて、隣の橿原市の石川町あたりに(・・)という交差点がございまして、その東側とか、あるいは久米寺がある久米あたりではなかろうかと考えられております。そういうふうに、はっきり場所もよくわらないんですが、興福寺は山階寺と厩坂寺という2つの前身寺院を持っているわけです。
 その後、藤原京をへて平城遷都が和銅2年(710)にありまして、現在の場所に移って興福寺と名前を改めたということで、この年を基点として、創建1300年と今私どもがいっておるわけで、平成22年(2010)の大きな節目を、できるだけ有意義な形でみなさま方と一緒に迎えたいと思って、いろいろな事業を展開しているわけでございます。



山根:
 ありがとうございました。さてその平城京遷都に伴って、厩坂から移されるわけですが、そのころどういう位置にあってどの程度の規模のお寺でどんな伽藍配置であったのかということについて鈴木先生お願いします。

鈴木:
 いま平城京全体の地図が映っておりますが、一番赤いところが興福寺です。ご覧になっておわかりのように、真四角な平城京の東北の角に外京(げきょう)というのが張り出しているわけです。実はここは高台の大変場所のいいところであります。平城宮というのはずっとまったいらで、ここにJRの奈良駅がありますが、南の方からその辺までずっと平らです。そこら辺から東の方へすこしづつ上がりになって、この興福寺のところでどんと14.5メートル上がって、興福寺の境内から平城宮が全部見渡せる。しかもみなさんご承知のように興福寺のすぐ前のところに猿沢の池がある。そういう眺望に恵まれ、水もあるという本当に景勝地であります。興福寺の縁起にも、「和銅3年に藤原不比等は春日の勝地を選んで、一番いいところにお寺を作った」という伝えがあるわけであります。
 ところで興福寺というのは大変不思議なお寺でありまして、さきほど貫首さまが言われましたけれども、前の山階寺、厩坂寺というのは全然場所がわからないのです。またいったいどういう仏さまを祀っていたのか、という記録もない。実際の記録には出てこないわけです。で、私なんかは、興福寺は平城京の造営にからんで忽然と現れて一等地を占めたお寺だと考えております。
 本当に一等地なんです。ご承知のように平城京ができたときに飛鳥の藤原京にあったお寺が続々とこの平城京へ移ってまいります。興福寺のすぐ下に元興寺、西の京のあの薬師寺、それからこちらの大安寺ですね。こういう寺院は、飛鳥や藤原京でも非常に由緒正しいお寺で、大安寺は大官大寺というのが移ってきて大安寺になった、そして藤原京でも薬師寺であったのがここに移って薬師寺になった。日本で最初の仏教寺院である飛鳥寺が移って元興寺になった。大変由緒正しいお寺が、だいたい霊亀年間から養老716年から718年にかけて移ってくるわけですが、興福寺は縁起でいいますと和銅3年(710)に、もうじかにここに造って、一番いい場所を占めちゃった。他のお寺は実は官の大寺でありまして、藤原京や飛鳥で国家的な行事が行われた官立の寺院が移ってくるわけでありますが、興福寺はさっきの厩坂寺なんていうなんにも記録には出てこなかったのが、忽然とここで出てくるわけなんです。

山根:
 それはどういうことなんでしょうか? 藤原氏がそのころから力を持っていたということなんでしょうか? 

鈴木:
 そうですね、平城京そのものは当時の長安にならった立派な都を造ろうと藤原不比等が指導したと考えられます。

山根:
 当時の伽藍配置はどうなっていたのですか?

鈴木:
 伽藍は、このように中金堂があって周りにいっぱいお堂があるんですが、これが奈良時代に創建したときの伽藍で、このあと平安時代に入って西金堂の南のところ、五重塔と対称の位置に南円堂ができわけです。草創のときはこういう状況です。
 まずは中金堂を藤原不比等が造り、東金堂は聖武天皇が造り、その下の五重塔は光明皇后が造り、反対側の西金堂も光明皇后が造って、その上の北円堂は元明・元正の両天皇が造っていって、大変に立派な伽藍ができあがるわけであります。
 興福寺は造り始めたときはよくわからないんですが、すぐにいわば官の寺院といますか、皇室や朝廷なんかの人たちがたくさん関係してまたたくまに国立寺院になっていき、しかも立派なお堂まで建ててもらったという不思議な歴史をもったお寺でございます。

山根:
 これは奈良時代の伽藍配置ですね。

鈴木:
 ここで、この伽藍の特徴だけ申しておきますと、中金堂から回廊が左右に伸びて中門、その南に南大門となって、塔が回廊の外のここにあるというふうにご覧になると特に不思議な感じはしないかも知れませんが、実は飛鳥・白鳳時代の伽藍というのは、回廊に囲まれた中に金堂と塔が一緒になってたんですね。四天王寺もそうですし、薬師寺なんかも塔がふたつ金堂の前にあったりするけれども、要するに飛鳥・白鳳というのは塔と中金堂はくっついていたわけです。ところが興福寺で初めて塔が金堂から離れて回廊の外に出まして、いわゆる天平式の伽藍がここで最初にできたということでございます。 

山根: 
 ありがとうございました。さて、こうした伽藍の中にどういう仏さまたちが配置されていのか。そのあたり鷲塚さんにお願いいたします。

鷲塚:
 現在残っているお像は、西金堂の八部衆と十大弟子であります。西金堂というのは天平5年(733)に光明皇后のお母さまであります橘三千代が亡くなりまして、その一周忌を期して皇后が発願され、その翌年、本堂に本尊の釈迦三尊とそれを取り巻くように数多くの仏像が作られたんです。そしてその後、興福寺には大きな火災が四度ありますが、この八部衆と十大弟子はそのたびに全部救け出されるという非常に数奇な運命をたどるわけであります。なぜ大火の時にこれらのお像が救われたかと申しますと、脱活乾漆(だっかつかんしつ)といいまして、土で原型を作ってそのうえに麻布をかけて漆で固めるという、まあ漆でできた張り子のようなお像なのです。

山根: 
 「脱活」というのは、脱するに活動の活という字ですね。

鷲塚:
 そうです、そういう方法でありありますから、中がからっぽで軽いわけです。そして等身よりやや小さいという大きさも、持ち運ぶには適していたということで救われたわけです。まさに天平6年という1270年も前の作例がそのままの状態で残っているというのは、日本以外では考えられないことだろうと思います。十大弟子をご覧いただきますと、全部は残っていないのですけれども、老若のそれぞれの表情が大変生き生きとあらわされていることにお気づきになると思います。迦楼羅(かるら)像などのような異形の神々の像も、そのままの姿で伝えられているということが特筆すべきことといってよろしいかと思います。

山根:
 八部衆の中にみなさまよくご存知の阿修羅。わたくしも取材の時に一時間あまりじっくり拝見しましたけれども、軽やかな美しい姿にびっくりしたんですが、作者はわかっているんでしょうか?

金子:
 作者ははっきりとわかってはいないんですけれども、正倉院文書の中に「造仏所作物帳」という経理報告書のようなものが残っておりまして、その中に「仏師将軍万福(ぶっししょうぐんまんぷく)」や「絵師秦牛養(えしはたのうしかい)」という名前が出ています。工人だと思いますが、これらの人物が中心となって作った可能性があると思います。将軍万福はおそらくもともとは百済系の渡来人の可能性が高いと思いますけれども、厳密な意味でどこまで作者といえるのかなかなか難しいと思います。 
 
山根:
 というのは?

金子:
 このころは、国やそれに準ずる寺院を造営する場合、「造東大寺司」「造薬師寺司」などといいましてお寺を作るための役所ができるんですね。藤原氏の氏寺でありながら皇室と関係の深い興福寺の場合、「造仏殿(典)司」という役所が作られました。そういうふうに、その時々に工人が集められて集団的に寺を作るということでした。仏像の制作についても、像の全体を最初から最後まで一人の人が作るというのではなく、分担しながら作業を進めたものと思われます。ただ将軍万福は「仏師」と記されることからも、粘土で全体の形を作る、彫刻として最も重要な彫塑の部分を担当した中心的工人であったと思います。

山根:
 それは八部衆や十大弟子すべてに共通にいえることなんですね?

金子:
 作風はみな共通しておりまして、同じ人物が全体を統率したものと思います。
 ところで、八部衆のうち特に有名は阿修羅というのはほんらい激しい戦いの神なんですね。インド神話ではインドラ(帝釈天)という最高神と戦う軍神で、激しい怒り顔で、肌は赤く、三つの頭があり、六本の手をもっている。持ち物は日月や弓矢です。それが興福寺像の場合、合掌して静かな表情をしている、というところが見所でありまして、そういう表現の背景には宗教的な理由や光明皇后が造立を発願された経緯など、作家の個性を超えたいろいろな問題が考えられます。
 西金堂の建立に際して、仏教的な指導をしたのは、遣唐使に随伴して702年に中国に渡り、留学16年の後、718年に帰国して、当時の唐の都・長安で行われていた最新の仏教と文化を日本にもたらした道慈とういう高僧であった可能性が高いと思われます。実際、西金堂諸像を構成する際の背景として、彼が新しく唐からもたらした『金光明最勝王経』が重要な役割を果たしたことが考えられます。道慈は光明皇后とも親しく接していた僧侶でした。
 


山根:
 阿修羅については、私どもの廻りでも下世話な連想で恐縮ですが、夏目雅子さんに似ているとかいろいろ言われていますが、実際にモデルがいたのでは?という説もありますが、藤岡さんいかがでしょうか?

藤岡:
 実在の人間としてのモデルはいなかったと思います。

山根:
 この頃、国際都市としての平城京には、いろんな国の人がいて、そういうひとたちがモデルになったのではないかと説くかたもいらっしゃいますね・・。
 さて平安のころになりますと、興福寺と春日大社が一体になっていくわけですが、この辺りの経緯について貫首さんお願いいたします。 

貫首:
 仏教というのはもちろん外来のもんですね。6世中ごろに入ってきたわけですが、それが次第に伝統的なもの、つまり日本の神々と習合(しゅうごう)していくわけです。平安時代に入りますと神仏習合というのが時代思潮となっていくわけですね。今は春日大社といいますが、昔は春日社でして、春日社はもちろん藤原氏の氏神で、興福寺は氏寺だということでパトロンが同じですから非常に近い関係でもありました。お寺のお坊さんが春日社に出向いていって祈願するというのは、今なら相当違和感があるかと思いますが、その頃の人はほとんど違和感がなかったと思います。
 それから日本の神仏習合というのは、「神身離脱(しんじんりだつ)、」「護法善神(ごほうぜんじん)」「本地垂迹(ほんじしじゃく)」という三形態があるといわれています。最初の神身離脱を簡単にいいますと、一般に神さまは立派でなんの苦しみもないと考えられますが、日本の神はからなずしもそうではなくて、神の姿をしていても本当は苦しんでいる神もおりまして、そういうものを仏教が救っていく、これが神身離脱の思想なんですね。
 それから、佛教の教えは外から入ってきたけれどたいへん立派だから、その教えを日本の神々が守護いたしましょう、というのが護法善神。本陣垂迹というのは、元々は仏であったものが、私たち日本人に親しい姿になってこの国に現れて救済する、こういう三つの形態があるわけです。
 神仏習合の形式はそれぞれの地域でも違うわけですが、春日社と興福寺の神仏習合はその中の護法善神と本地垂迹がミックスして出来上がったものだと、簡単にいえばそういうことになります。平安時代になって、春日の神さまは興福寺の宗旨である法相唯識という教えを護る神さまであるというふうに明確になってまいります。そうであれば、当然春日社の神さまのところに行ってお参りをする、いわゆる「社参(しゃさん)」を行うことが興福寺僧の大事な務めになっていくわけですね。後世の資料をみますと、伽藍のなかで「堂参(どうさん)」をするよりも「社参」するほうがみな大変熱心だったという記録もあります(笑)。有名な春日権現験記絵というのがございますが、第一巻の冒頭には承平7年2月25日でしたか、興福寺の勝円というお坊さんが社参していますと、神さまが姿を現して託宣をしましてね、「自分は慈悲万行菩薩(じひまんぎょうぼさつ)だ」とみずから名乗ったという大変有名な場面がございます。これは937年、10世紀の前半のことですが、そのあたりから興福寺僧が春日社に頻繁にお参りしたようです。それはきわめて個人的な参拝であったと思いますが、そのうちに春日の境内で仏教法要をやってくれと藤原氏の人たちがいうもので、氏寺ですからそうするわけです。お願いする方も手ぶらではお願いにはこないんで(笑)、要するに寄進をするわけですね。昔のことですから当然寄進というのは荘園なわけです。その時は、お寺のセレモニーですから、その荘園は興福寺がお預かりして管理をする。それがだんだん増えてくるわけです。そうすると信仰の面でも経済的な面でも興福寺と春日社は一体化してしまいます。明治以降は興福寺では住職のことを貫首(かんす)という名称を使っておりますけど、明治まではどこのお寺でも別当(べっとう)と言っておりました。興福寺住職は、正式には「春日社興福寺別当」という名称で幕末まできたわけで、信仰の面だけでなくて全体として一体化していたということですね。

山根:
 神さま、仏さまを全部一緒にしてしまう日本人の宗教観というのはこの頃からで出てくるわけですか?

貫首:
 もっと前からですね。ご承知のように仏教が日本に入った当時、受け入れる立場と排除していく立場がありました。相当厳しい対立があったといわれる一方で、本当に対立していたのかを疑問視する人もいます。仏教受容にあたって政治が絡んでそうなったんではないかと。蘇我氏が受けいれて、物部氏が廃仏したといわれていますが、仏教というか「ほとけ」という概念やらイメージがその頃の日本人にはなかったわけで、要するに外からやってきた「ほとけ」という神さまなんですね。日本の神というのは荒ぶる神々ですから、ちゃんとお迎えをしてご馳走や音楽でおもてなしをして、いい気持ちでお帰りいただく、そういうのが神道のセレモニーですよね。それと同じような受け入れ方をして、外国からせっかくいらしたんだから、一応布教をしてもらってからお帰りいただこうという。お迎えする方が蘇我氏で、お送りする方のセレモニー担当が物部だったという人もいるんですね。詳しい経緯はわからないんですけれども、次第に仏教が受け入れられていった時に、日本の神さまか仏教かを選択するわけではなくて、並列にお祀りするという非常に多神教的な受け入れ方で、いろいろな神さまがいらっしゃっても、仏教のほうも寛容性がありまして、排除していくのではなくて、次第におのずから合体していった・・。