2)治承4年の焼亡から鎌倉復興期の興福寺

山根:
 春日社と一体化することでだんだん大きくなってきた興福寺をここまで見てまいりました。草創期の興福寺が藤原氏の繁栄で次第に強大な力を持つようになるわけですね。ところが平安時代の末期の治承4年(1180)、平重衡による南都焼き討ちでほぼ全焼してしまいます。壊滅的な打撃を受けるんですが、そこからいち早く興福寺は復興に立ち上がります。
 ここからは、この時期の復興に携わった南都仏師や作られた仏像に注目してお話を展開していきたいと思います。
 まず、なぜ興福寺が焼き討ちにあわなければならなかったのか。また興福寺とともに東大寺も同じときに焼き討ちにあったわけですが、東大寺よりも先に興福寺がいち早く復興されていったそうですが、それは何故だったのでしょうか?このあたりをもういちど多川さんお願いいたします。

貫首:
 なぜ焼き討ちにあわなければならなかったのか、一口でいえば興福寺だけではなく東大寺も含めて、奈良というのは源氏方というか反平家だったんですよね。で、最後には以仁王(もちひとおう、1151〜1180)をかついで平家を打倒しようということで奈良の寺院勢力は一致協力するわけですね。そういうところから平家にとってはとんでもない悪僧どもだということで、掃討作戦の対象となったということです。

山根:
 なるほど。そして平家が滅んだあと、興福寺と東大寺では復興のテンポに違いがあったということですが、そこのところについてお願いします。

貫首:
 東大寺さんと興福寺は、ともに壊滅的な打撃を被ったあと、すぐに復興の機運が高まるわけです。さきほどの鈴木先生のお話などでおわかりかと思いますが、興福寺というのは元々は私立寺院ですよね、それがだんだん国のお寺のようになっていく一方、藤原氏が摂関政治で日本を動かしていくわけですね。その藤原氏がパトロンですから、文化的な面だけでなく、経済的な力がお寺に反映していったわけです。ですから朝廷からの援助もあったでしょうし、藤原氏自体も強大な経済力をもっていたし、お寺にも先ほどの春日社の境内での仏教法要にからんで荘園がたくさんありましたので、お寺自体に財政的な余裕があった。経済的には、そういう三つの方角から復興をして、国立の寺院である東大寺さんのように、お金の出所が一本ではなかったからだといえるのではないでしょうか。

山根:
 治承4年の焼き討ちでどのぐらいの被害を受けたのか。鈴木先生、伽藍の面では、どんな状況だったのでしょうか。

鈴木:
 完全に全滅なんですね。東大寺は大仏殿とか中心部分は全部焼かれてしまうんですけれども、たとえば東の山の方の三月堂とか二月堂とか、うしろの正倉院は残っていますし、こっちの転害門とかまわりのところは残ったんですよね。ところが興福寺は全く全滅してしまいましてね。記録によると、一番南の方の禅定院という、今は奈良ホテルがあるところいら辺、ここはあとで大乗院になるんですけれども、そのへんと少しお山が残ったぐらいで、本当に全滅してしまうんですね。
 *藤岡先生資料によると残存建築は、禅定院と尊教院
 *『仏教芸術40号』:永島福太郎「興福寺の歴史」の中で
「大乗院門跡の遺址は奈良ホテルの地。これが少しく遠方にあるのは
治承の兵火によって、いまの博物館の地にあった門跡が罹災し、
元興寺の別院であった禅定院を門跡に利用したからである」

山根:
 そんな状況から、よくまあ復興できましたし、そして八部衆や十大弟子をよくぞ救い出せたものですねぇ。
 
鈴木:
 興福寺というのは平安時代に何遍か火事にあったでんですね。特に一番大きかったのは治承の焼き討ちの130年ほど前の永承元年(1046)の火災なんですが、その時に、摂関家の藤原氏の貴族たちが朝廷の中枢部にいて、復興の指導権を握って一生懸命興福寺を助けている。ですから、そういう点では興福寺は「火災慣れ」しているわけです(笑)。それに対して東大寺というのは聖武天皇が建てたんだけども、このとき初めて焼けたんです。さてどうしようか、だから朝廷は興福寺も東大寺も同じように造寺官というのを作って国のちからで復興しようとするんだけど、朝廷は号令するだけで実際は経済力がないんですね。興福寺は藤原氏の貴族がいっぱいいるもんだから自前でやれるんだけど、東大寺はそういう力がないもんだから、重源さん(俊乗坊重源1121〜1206)が大勧進ということで、本当に勧進(民間からの寄進)だけで復興をやっていくわけですね。ここらへんで、両方のお寺の歴史が違うわけですね。興福寺は、再建し慣れているということですね(笑)。
*重源資料

山根:
 重衡の焼き討ちの前にも何度も火事にあって、その体験が活きたわけですね。
失われた仏像を再建というのでしょうか、あらためて作るということになりますが、このときはどんな形で作り直したのでしょうか?

鷲塚:
 さきほど貫首がおっしゃったように、財政的には朝廷が国々に分担させる「公家の沙汰」と、「氏長者(うじのちょうじゃ、この時は九条兼実/藤原忠通の子息、慈円の兄)の沙汰」という藤原氏が行う復興、「寺家(じけ)の沙汰」つまりお寺自身の復興という三つの柱でつくるんですが、仏像の復興には南都にいた仏師はもちろんのことながら、京都からの応援団といいますか、院派、円派といった都で活躍していた人たちが入ってくるわけですね。最初に誰がどこのお堂の仏像を担当するか割り当てがあるんですけど、はじめは当時の仏師の世界で一番位の高かった院尊という人がいまして、その人に金堂、講堂の両方の造像が割り当てられるわけですね。これは造仏長官・藤原兼光という人がいまして、この人と院派との姻戚関係があったらしくて、そういうことになったようで、「それはないだろう」ということを明円という円派の仏師や定朝の六代を名乗る成朝という仏師たちが抗議をして、それで各お堂の担当があらためて決められたという経緯があるわけです。



山根:
 その場では結構生々しい分捕り合戦があったんですね。京都仏師と奈良仏師との間で。

鷲塚:
 残念ながら法印・院尊が作った講堂の阿弥陀三尊、それから法眼・明円が作った金堂の釈迦三尊というのは後に焼けてしまって残っておりませんので、一番早く復興した仏像で現在残っているものとしては、今映っております南円堂の仏像ですね。

山根:
 この南円堂にあります不空羂索観音菩薩坐像。この仏像について藤岡先生、よろしくお願いいたします。

藤岡:
 今スライドに写っているのが南円堂の不空羂索観音菩薩坐像です。額に目があり、両目とあわせて三つの目をもっています。そして、手が八本あります。東大寺法華堂の不空羂索観音とも同じですが、図像としてはシヴァ神の姿をもとにした三目八臂のお姿が採用されています。ただ、それだけではなくて南円堂像の場合、光背や台座の形が普通とは異なります。光背の周囲には唐草文様を透彫りした、矢羽根のような形をした板がぐるりとめぐらされています。おそらく光条が放射される様を表しているのでしょう。光条の特徴をよくとらえ、かつそれをみごとに荘厳しています。台座は蓮華座で、花瓶から大きな蓮華が咲きほこるさまを表しています。特に宝珠と唐草を浮き彫りで表した花瓶の形に奈良時代の特徴がうかがえます。南円堂のそもそもの本尊は、奈良時代に講堂の本尊として作られ、平安時代の初めに藤原冬嗣によって南円堂が創建された時に移されたものでした。南円堂の不空羂索観音は、その後観音霊場のひとつとして大いに信仰をあつめ、図像集にもその姿が描きとどめられましたが、その図を見ますと再興像である現在の像と三目八臂の姿だけでなく、光背や台座の形式まで一致しています。すなわち、南円堂の本尊はどうも奈良時代に作られたもともともとの不空羂索観音のお姿を忠実に写していることがわかります。興福寺の復興は、奈良時代以来伝えられてき伽藍や仏像を元のとおりに復興するというのが第一義でした。南円堂の不空羂索観音はそういった当時の考え方、願いをもっとも明確に伺うことができるお像ということができます。

山根:
 南円堂の仏像を担当したのは、奈良仏師の康慶一門だそうですね。

藤岡:
 運慶のお父さんとして知られている康慶ですね。

山根:
 何年ごろに作られたのですか?

藤岡:
 興福寺が兵火に見舞われたのが1180年。南円堂像が完成したのがそれから9年後の1189年。9年もかかってはいますが、興福寺では仏像の中では講堂についで二番目に早い復興でした。

山根:
 南円堂のご本尊というのはとても重要な・・、もちろんどの仏さまも大事でしょうけれども、特に重要だったのでしょうか?

藤岡:
 さきほど鈴木先生からご説明がありました興福寺の伽藍の中で一番の中心は中金堂で、今度興福寺さんが復興されようとしているのはその中金堂です。ところが、鎌倉の復興にあっては、中金堂よりもさきに講堂や南円堂が復興されました。実は、講堂は僧侶たちの出世の登竜門とされた、いわば国家試験ともいうべき維摩会を行うところでした。その復興は学僧たちにとっても、国家試験を管轄していた朝廷や貴族たちにとってもとても重大でした。何せ昇進が滞るわけですから。一方、南円堂はさきほども申しましたように観音霊場の札所として、また摂関家にとって重要な意味をもっていました。講堂や南円堂の復興が中金堂よりも優先された背景には、そうした事情があったようです。



山根:
 参詣する2日前から精進潔斎をして南円堂にお参りしたとかというお話も伺ってますが・・、そんな現実的な事情があったとはおどろきですね。

藤岡:
 興福寺の復興に関してもうひとつ大事なことをお話させてください。お堂を建てるのは大工さんであり、仏像を作るのは仏師で、南円堂の仏像は康慶がそれをてがけました。しかし、その前提として復興の計画を立てたり、費用を用意したりする人たちの存在があったわけです。たとえば今度の中金堂復興は陣頭指揮を多川貫主がとっておられるわけですが、鎌倉時代の復興では興福寺の別当をつとめた信円という人が大きな働きを果たしました。また、藤原氏のほうにも氏長者、摂政となった九条兼実がいて、このふたりが両輪となったことが知られています。この二人の主導のもとに講堂、南円堂、中金堂などが復興されていきました。そして、1194年に供養が完成を祝う儀式がとりおこなわれます。ところが、この時点では復興は完成していませんでした。そして、この二人の後を継いだのが解脱房貞慶という人でした。北円堂や五重塔、そして東金堂や西金堂の仏像については、解脱房貞慶が重要な働きをはたしました。

山根:
 おなじ南円堂でこの時代に復刻というか改めて作られたのが法相六相像ですね。 

藤岡:
 現在、伝善珠が展覧会に出品されています。目に水晶をはめる玉眼という技法を用いていて、表情もとても生々しく、衣の表現も写実的です。

山根:
 無著、世親とかと同じ技法ですね。

藤岡:
 そうですね。また当時実在した人ではなくて、さかのぼった時代の祖師を表したお像なんですけれども、現実の人物を生き写したような表現をしていますね。

山根:
 四天王もそうですか?

藤岡:
 今、こちらは現在南円堂に安置されている四天王ですね。日本の四天王像の中でも最も劇的な表情を見せているお像です。ただし、もともとの南円堂四天王、康慶が作った南円堂の四天王は、実はこのお像ではなく、今回の展覧会に出品されている、現在は中金堂像に安置されている四天王像であったということがわかっています。一方、この四天王は作られた年代やもともと安置されていたお堂について研究者の間で意見が分かれています。私はかつて、この像は1200年前後、東金堂の像として作られたのではないか、担当した仏師は東金堂の仏像制作で活躍した定慶の一派ではないかという論文を発表したことがあります。ところがその後、この像は1212年頃に運慶一門によって完成された北円堂の四天王像であるとの意見が出されました。実は、今回の展覧会で北円堂の無著、世親像を間近に拝見する機会を得て、意外に激しいというか、脂ぎったというか、ともかく圧倒的な迫力をもっていることを改めて認識させられました。東金堂の維摩像も出品されていますが、両者を比較しますとその差は歴然としています。そして、南円堂の四天王が一緒に安置されるとすれば、維摩像よりもむしろ無著、世親像の方がふさわしいのではないかと。そうだとすれば自説を訂正しなければなりません。簡単に結論の出る問題ではないのですが、もう一度考え直してみたいという思いに今は駆られています。

山根:
 さて次に御紹介するのは、東金堂の仏像、維摩居士です。これは金子さんお願いします。

金子:
 興福寺は、さきほど三者分担で復興したと話がありましたが、東金堂は「寺家の沙汰」つまりお寺の担当で造られました。東金堂の建物自身は1082年に着工、1085年に完成をしておりました。お堂は早々に完成したにもかかわらず、ご本尊の薬師如来と脇侍がなかなか出来ない状態であったものですから、業を煮やした東金堂の堂衆たちが別のお寺から強引に仏像を持ってくるという事件が起こります。そんなことがありながらも、次第に本尊以外のお像の復興も進んでいきます。
 現在鎌倉時代の復興期のものとして東金堂に残っているのが維摩居士像、文殊菩薩像、十二神将像であります。また現在、東金堂から離れておりますけれども、もとは東金堂にあったと推測される仏像もあります。
 この維摩居士像ですけれども、文殊菩薩像と対になって作られています。作られた年が1196年であることが体の中に朱で書かれた銘文からわかります。また、それによって、定慶という仏師が作ったということもわかっております。
 維摩居士像は3月からはじめて53日間でお像が作られまして、そのあと50日かかって彩色が加えられたと記録されております。この維摩像ですけれども、興福寺は奈良時代の規模にならって復興するということが大きな趣旨でしたが、この像はむしろ中国・宋の仏画の形式から影響を受けた表現が随所に見られます。たとえばここの台座に獅子があります。こういう表現はそれまでの日本彫刻には見られなかったんですが、中国の宋時代の画にみられます。それから像の後ろの後屏に布をかぶせたようなかたちなどもそうです。表現全体に中国の最新の情報をとりいれておりますが、それが定慶という仏師の作風の大きな特色にもなっています。こうした斬新な新しい要素が続々とはいっています。そういうことも鎌倉時代の復興期の特徴として注目されていい要素ではないかと思っています。 
 このお像も先ほどから話にでていますけど、玉眼と申しまして目に水晶の玉をいれて、人間の表情を非常にリアルにあらわす技法が用いられていますが、それがたいへん効果的で内面的な心理がとてもよく表現されています。維摩は仏教の真髄を体現した在家の仏教者ですが、この場面では病人なんですね。そこにお釈迦さまの意向を受けた文殊菩薩がお見舞いに訪ねてきて、有名な文殊・維摩の問答が行なわれます。病いを得たやや苦しげな表情をしながら口を少し開いて言葉を発している様子がとてもリアルに表現されています。
この維摩居士と対になるのが文殊菩薩でして、病人で老人である維摩居士とは対照的に、はちきれんばかりの若々しい溌剌とした姿で作られ、みごとな対称をなしています。文殊菩薩は作者が明記されていませんけれども、同じ定慶が担当した可能性が高い。それから十二神将ですが、こちらは作風にばらつきがございまして、一人の作家が作ったものではないと考えられます。

山根:
 この時代に復興されたものは、みんな木彫ですか?

金子:
 そうですね、このときに復興された仏像はすべて木彫ですね。

山根:
 木の種類は?

金子:
 おもに檜や桂を使っていますね。

山根:
 この作品も今国宝展に出品されていますが、見ると「いるよね、こういう人って」。そばによると理屈をふっかけられそうですよね(笑)。大変罰当たりなことを申してしまいましたが、本当にリアルな表現ですが、現代彫刻も真っ青という感じですよね?

金子:
 そうですね。鎌倉彫刻はリアルだリアルだとよく言われますけれども、ヨーロッパ・ルネッサンスの、たとえばドナテルロなどの彫刻のリアリズムなどとはだいぶ違うんですね。ドナテルロのリアリズムは肉体の写実性とか魂の苦悩とかをなまなましく表しています。それに対して鎌倉彫刻の優れた作品ですと、生々しさはあるんですが、その中により深い精神描写や、いきいきとした内面性などを、リアルに追求することに成功しています。単なる表面的な生々しさではないと思います。

山根:
 次に見るのがまたさらにそれを証明してくれると思いますが、北円堂ですね。

金子:
 北円堂の本尊は、弥勒菩薩ではなく弥勒如来または弥勒仏といって、菩薩の一つ上の段階の存在です。北円堂の仏像は1212年ごろにはおそらく完成していたことが記録から推定できます。さきほどから話が出ていますけれども、寺では解脱上人貞慶が北円堂の勧進状帳を書いておりまして北円堂の復興に大きな役割を果たしたと考えられます。そして、貞慶と関係の深い専心という上人が勧進となって計画を進めたようです。
 この北円堂は、有名な運慶一門によって仏像が作られたということがわかっていることでも、注目すべきお堂です。弥勒仏、両脇侍、四天王、無著、世親像の9体が作られましたが、運慶が全体の指揮を取りながら、一門の長老や子息の仏師などに担当を振り分け、分担して制作しています。各像の分担は、弥勒仏がベテランの仏師源慶と静慶(じょうけい)、脇侍の1体が運覚。また、四天王と無著、世親像。これらは、運慶に6人の子息がありまして、長男の湛慶をはじめ皆仏師になりますが、彼らが一体ごとの頭になって分担したことが記録からわかっています。
 当時運慶は60歳前後と思われますが、運慶工房の総力をあげて作った、非常に記念碑的な像になっています。 
先ほどの弥勒仏につきましては、鎌倉のこれまでの運慶の活動を集約したような成熟したといいますか、決して枯れたというのではなくて、とても円熟し、充実した作品となっています。この弥勒仏は、目に玉眼をいれておりませんで、木の表面を彫刻して目を表しています。それに対して 無著・世親像は玉眼を用いて両者の性格や意識の違いを見事に表している。無著の人々を見つめる優しいまなざしと、世親の遠くを見つめる意志的な視線が対称的です。この無著・世親像こそは、日本の人間像、高僧像の中でもとりわけ傑出した作品だと思います。先ほどから申しておりますように、単に外形的なリアリズムではなくて、人生を積み重ねた深い精神のあり方を典型的に表しています。また、非常にボリュームがあって圧倒的な存在感が感じられ、しかも決して大袈裟なポーズではなく何気ない動きの中により普遍的ともいうべき深い精神性を表現しています。そういう意味で北円堂は鎌倉時代の彫刻を考える上でとても最も重要なお堂であります。
今、北円堂で残っているのは、弥勒仏と無著、世親像の3体だけですが、現在、南円堂にある四天王像も北円堂の像ではなかったかとする説もありまして、私もその可能性があるのではないかと思っています。

山根:
 今回の国宝展に出展されていますが、そういっては何でございますが、北円堂で拝見するよりもよく拝見できます、まるで別人のようです。是非まだご覧になっていらっしゃらない方はご覧になっていただきたいと思います。
 そして今度は西金堂です。

鷲塚:
 金剛力士ですが、鎌倉の生々しさといいますか、きわめて写実的で躍動感にあふれ、これも目に水晶がはいっていますけど、目が怒りのあまり飛び出すような感じで、血管が怒張している形や、筋肉の隆々とした表現というのが極めて的確に表現されています。興福寺には「興福寺濫觴記」という記録がありまして、それによりますと建久年間、1190年代に春日仏師定慶が作ったという記録がありますが、さきほどの維摩さんをつくった定慶とするには問題がありまして、建久年間に創られたであろうことに間違いないんですけれども作者ははっきりしておりません。ご存知のように鎌倉時代の仏像は寄木造りといいまして、複数の同格の材料を集めたもので作られてありまして、中は内刳りといってきれいに刳りぬいてあるわけですが、この像のように動きの激しい像は、単に四材なら四材を寄せるだけというわけにはいきませんで、丁度お腹のあたりで輪切りにして、上と下を動きにあわせてずらせているんです。それで激しい動きを表現するというたいへん変わった造像がなされていることが大きな特徴となっています。

 それと吽形像の右の足元には 照応元年1288年の修理の墨書銘がありまして、それによりますと、大仏師善増という人と絵所の大仏師観実というふたりがこの修理をしたということです。したがいまして造像から約80年ぐらいあとにすでに修理が行われています。

山根:
 さきほど金子さんからのお話の中にもありましたが、東金堂はお堂の方が完成してもなかなかご本尊が完成しないという状況が続くうち、大きな事件が起こるわけですね。このあたりのお話をお願いしたします。

金子:
 先ほどお話しましたように東金堂のお堂はできたんですが、仏像がなかなか作られないという時期が長く続いたわけです。そのころ東金堂でお坊さんのいろいろなお世話をしたり、お手伝いをするという堂衆(どうしゅう)がだんだん僧兵のような形になるわけですね。この堂衆が業を煮やして、飛鳥の山田寺の講堂にあった金銅の薬師三尊像に着目して、それを飛鳥から強引に運んで東金堂のご本尊にすえたということであります。
 実は先ほど来、東金堂は火災に何度もあっているという話がありましたが、応永年間の大火災では東金堂も焼け落ちてしまうわけですが、そのときに両脇侍が救われたけれども、ご本尊は頭の部分だけを残してあとは焼け落ちてしまったという記録があります。その後ながらく、これがどこにあったかわからなかったわけですけれども、昭和12年の東金堂の解体修理が行われていた10月30日に、応永期に作られた現在のご本尊の台座のなかに納められていた金銅の仏頭が発見されまして、当時大変なニュースになりました。この仏頭こそ、まさに鎌倉時代に飛鳥の山田寺から持ってこられたご本尊であるということになったわけです。この山田寺仏頭は造られた年もわかっておりますし、大変由緒正しい仏像なのです。

山根:
 鈴木先生、山田寺になぜ行ったんでしょう・・

鈴木:
 山田寺というのは櫻井から安倍を通って明日香にはいる丁度入り口のところにあるお寺なんですね。20年ほど前に、発掘現場から連子窓のついた回廊が倒れたままの状態うずまっているのが発見されまして、その時には今の天皇さんが皇太子の時で、ご夫妻で見学というか視察にきていただいたというくらいの話題を呼んだお寺なんですが、まあ大変りっぱなお寺であったわけです。

山根:
 興福寺さんとの関係はどうなんでしょうか?

鈴木:
 この当時はね、飛鳥のすぐ東側に談山神社がありますが、あそこが本来多武峰寺なんですね。鎌足が死んで、三嶋に葬ったあと、息子の(じょうけい)と不比等が骨を移して墓地にしたという所縁のお寺、山田寺はそこの末寺であったのではなかったのかと考えております。

山根:
 藤原不比等のつながりなんでしょうか?

鈴木:
 いやいや、鎌足です。鎌足は多武峰寺のいわばご本尊といいますか、その墓地ですから、たぶん末寺だったのではないかと思う。それで鎌足の関係で堂衆が目をつけたのではないでしょうか。
このお像身は日本書紀にですね、山田寺を作ったときに・・・・

金子:
 山田寺は大化の改新で活躍した蘇我倉山田石川麻呂が建てた寺です。 大化の改新の時に藤原方鎌足らと一緒になって蘇我氏を滅ぼすということなりますので、藤原氏との関連性が深いんですね。
 石川麻呂は大化の改新のあとに右大臣にまで登るのですが、有名な讒言、告げ口によりまして、中大兄皇子から疑いをもたれて、自害することになるのですが、その後石川麻呂の菩提を弔うために山田寺の講堂のご本尊、薬師三尊像が作られるということになります。 
 像は金銅仏で天武天皇の7年(678)に鋳造がはじめられまして、685年に開眼されています。非常に由緒正しい仏像です。この時期つまり白鳳文化期という時期の仏像は制作年代がわかることがとても少ないんですが、その中で興福寺仏頭は貴重な存在です。それだけでなく、像としての出来が優れており、この時期を代表するものなのです。
 鼻筋から眉にかけての曲線が非常にきれいで、柔らかな表情になっておりますけど、青年のような若々しさが感じられます。目をみますと、目頭の部分で上瞼の縁が少し下瞼に伸びる蒙古襞となっていますが、この時期の仏像によくみられます。全体的に中国の隋代彫刻の影響がみられますが、それを日本的に充分に咀嚼し、独自の新しい形につくりあげています。

山根:
 興福寺の堂衆さん、良い仏さまに目をつけてこられたとことだということですね。
 さてここまで鎌倉復興期に作られた仏像を見てまいりましたけれども、この とき興福寺のどんな伽藍がどういう配置にあり、仏像がどんなふうに配置され ていたのかに興味が湧きますが、このことを知る手がかりになるのが、興福寺 曼荼羅図です ね。これについて藤岡さんお願いします。

藤岡:
 この興福寺曼荼羅図は、京都国立博物館が所蔵しているもので、春日社や興福寺を描いたいわゆる春日興福寺曼荼羅のなかでももっとも興福寺の安置仏像をくわしく描いています。興福寺国宝展では多くの春日興福寺曼荼羅をお集めになっているようですが、この京博本は東京会場では残念ながら写真パネルでの参加です。
 画面中央に大きく描かれているのが中金堂、その下に東金堂と西金堂 東金堂の下には五重塔、西金堂の下には南円堂、そして中金堂の上には北円堂と講堂と食堂、このように画面の上を北、下を南としておよそ伽藍配置にしたがってお堂を配し、お堂ごとに安置仏像を詳細に描いています。
 この絵の最大の特徴は、非常にたくさんの仏像を描きこんでいるところです。春日興福寺曼荼羅は少なからず作例が知られています。しかし、春日社頭の景色を中心に描いたものが多く、興福寺のお堂や仏像を描いてもせいぜい画面の下半分だけです。画面の大半を興福寺のお堂と仏像に費やしているのは京博本が唯一です。
この絵の制作年代、そしていつ頃の興福寺を描いたか、つまり景観年代についてはいくつかの説があります。かつては治承兵火以前の状況を描いた絵図であり、平安時代末頃の制作であろうと考えられていました。ところが、最近の研究では、まず制作年代について、ちょうど鎌倉復興の頃に描かれたのではないかといわれております。そうしますと、はたしていつの状況を描いたのか、治承兵火以前なのか以降なのかが問題になってきますが、残念ながら景観年代についてはどちらともいえないというのが実情です。
 ところで、こうした曼荼羅は何のために描かれたのでしょう。当時の記録によりますと、春日社を氏神としていた藤原氏が、京都から奈良へと出向いて参詣するかわりに、春日社を描いた絵を自分の邸宅に掛けて遙か春日に思いをはせて礼拝したことが知られます。それを「遥拝」といったそうですが、いわば方便としての礼拝に用いられたわけです。その他、これを春日社に奉納して結縁するということもあったでしょうし、時代が降れば礼拝の案内図というか、絵図として制作されたものもあったかも知れません。この絵に限りますと、その制作目的は必ずしも明らかではありませんが、先ほども申しましたように執拗に仏像を描いている、しかも復興の最中に制作されたことに注目しますと、ひょっとするとこの絵は是非こういう状態に復興したいという願いをこめた、いわば復興計画図というべきものではなかったかと思われてきます。
たとえば、中金堂をご覧下さい。ずいぶん多くの仏像が描かれています。中金堂にはご本尊の釈迦三尊やそれを守護する四天王が安置されていたほか、須弥壇の右脇、すなわち向かって左脇には藤原不比等の追善のために作られた弥勒浄土を表す仏像群が安置されていました。この弥勒浄土は治承兵火後にもきちんと復興されたことが記録によって知られていますが、絵にはそれが描かれているのです。鎌倉の復興では、創建以来の状態に復興することが仏の教えを守り伝えていくために大切だと考えられていました。その復興の指針を目に見える形でしめしたのがこの興福寺曼荼羅だったのではないでしょうか。

山根:
 このように復興したいというのは、元々こうであったからそのように復元したい。そういう意味では、元々の姿が解るということでしょうか。

藤岡:
 はい、そうです。

山根:
 ありがとうございました。ここまでは、鎌倉復興期までの興福寺の様子をみてまいりました。
 ではここで十分間の休憩に入ります。