3)近世から近代の興福寺

山根:
 では近世から近代に舞台を進めてまいります。
 治承4年の壊滅的な状態から目覚しい復興をとげた興福寺ですが、その後もたびたび火災にあいます。それでも300年ほどの間、比較的安定した時期を過ごします。そして時代が下って、武士政権の時代が長く続き、藤原氏の勢力が衰えるにつれ、興福寺は徐々にその力を失っていきました。そして享保2年(1717)の大火災の後はとうとう本格的な再建できず、中金堂は仮堂のまま、明治維新を迎えることになります。この時期の興福寺にスポットをあててみようと思います。
 享保の火災の後、再興計画がなかなか進まない中で、南円堂だけはいち早く復興していたわけですね。興福寺の信仰の面から整理していきたいと思います。興福寺にとっての南円堂というのは、西国観音霊場の札所になっていたわけですが、貫首さん、このあたりのお話をお願いしたします。



貫首:
 弘仁4年、平安時代のはじめの814年に南円堂ができまして、これで興福寺の伽藍が完全に完成したということです。建てましたのは藤原冬嗣(775〜826)といいまして、藤原の北家の方でして、お父さまの内麻呂の追善のために建てたお堂ということで、そういう意味ではきわめて個人的な追善のためのお堂ということですが、どこのお堂でも一緒ですが、時代は藤原氏による摂関政治のころで、したがいましてそういう個人的な目的で建立された仏像でも、いろいろな民衆のさまざまな願いをこめて祈られているうちに、民間信仰が形作られていくわけです。ここが仏像の素晴らしいところだと思っておるんですが、南円堂もしかりでありまして、今現在、西国三十三箇所の九番の札所になっているんですが、観音霊場としての南円堂ということで、いまでもお参りが多いんですが、この観音霊場、観音巡礼というのは奈良時代に徳道上人が始められたといいますが、よくわからないんです。平安時代、だいたい十世紀の方ですが、花山法王という方がおりまして、その方が廻られて竣工されたということになっていますが、史実としては、もうちょっと後でして、(ぎょうそん)とか(かくちゅう)という人がこれは園城寺、大津の三井寺さんですね、ここのお坊さんがたなんですが、これがだいたい12世紀ごろに西国観音巡回をしたと記録がございまして、これは確実なんですね。その頃から当然一人でお参りしたわけではなくて、何人かお連れがいたり、そういう有名なお坊さまがたが廻るとだんだん民衆化していく、だいたい14世紀ぐらいになると、一般の人たちも巡回するようになる。ま、そういうことで興福寺でいえば例えば16世紀に書かれた有名な多聞日記がありますが、これは中世初頭の興福寺僧の日記でございますが、その中にも南円堂のところに、「老若都鄙(ろうにゃくとひ)の人々、都であったり、鄙(ひな)ですから田舎ですね、全国いろいろなところから南円堂にお参りしていく」という記事もございまして、相当民衆化していくということですね。それで享保2年(1717)の冒頭に焼けまして、先ほど鈴木先生が“興福寺は焼け慣れている”とおっしゃいましたけど、当然再建も慣れているはずだったのですが、すでにその頃は300年ぐらい平穏無事だったもんですから、ノウハウが伝わらなかったのかどうかわからないけれども、18世紀の火事で西半分が焼けた後、ほとんど復興が進捗しない、そういう状況だったわけですね。ただ南円堂は民衆の人たちがお参りするということもありまして、いくら藤原氏の氏寺でありましてもそれを無視できないということから、だいたい80年ぐらいかかって再建しています。この前平成9年に平成の大修理をやって、お寺を詳しく調べたのですが、80年間にきわめて苦労しておりまして、お堂が建ったり、瓦を焼くんですが、すぐに葺けないんですね、お金がなくて。葺くところだけ葺いて、八角円堂ですから屋根が八面あるんですが、前の見える方だけ葺いて後の三間は板の間だけで残っているそういう状況で、やっと80年ぐらいかかって完成していく、それぐらい苦労して南円堂は復興造営できた。しかし肝心の中金堂がさっぱりでして、100年ぐらいたった文政に仮堂ができます。それも奈良の町の町主なんですけれども、(じゅえんさん)という方がお金をお出しになって一回りも二廻りも小さいほんとうに仮設的なお堂を建てて凌いだという形です。その頃には、興福寺としてもなんとなく本堂はあるんですが、中心と思っていたのは南円堂なんですよね。南円堂で興福寺が成り立っているという変則状態でございます。さきほども申しましたが、神仏習合が続いていましたので、本地仏は、貞慶の「春日講式」によれば、春日の神というのは「五所明神(五所権現)」といって本社四神に若宮社を加えた五神であると。一宮がお釈迦さま、二宮がお薬師さん、三宮がお地蔵さん、四宮が十一面観音、そして若宮が文殊さんだというのがだいたいのフォーマルな説なんですけど、もう一方の強力な説としては、南円堂の不空羂索観音が一宮の本地仏であるというようなことでありまして、興福寺でも南円堂を大事にする。現在でもほとんどお気づきにならないんですけれども正面の扉の上をみていただきますと注連縄をかけておりまして、お堂の中に赤童子という春日の神像をご本尊の前にご安置しております。 春日信仰としても南円堂は非常に大事だということであります。さきほど解脱坊貞慶の話もでましたけれども、(ふじょうけんさん)が上位一式論の(あんね)という学者の説が、非常に難しいんですけれども、その(あんね)の学説を理解するのに十日間南円堂が参拝したとかいって教学的にも大事、民衆の方たちも信仰・・も非常に大事。結局本堂はある意味ですが、意識がみんな南円堂に集中している。それで江戸末までというか、そういう形態は明治以降もつづくんですけれどもそういう形で興福寺(・・)

山根:
 注連縄がかかっているんですか。九番札所だというのも今回初めて知りました。これからは南円堂も丁寧にお参りしたいと思います。こういった形で南円堂復興も難しく、80年がかりだったそうですが、本堂のほうが仮設堂のまま、いよいよ慶應4年1868年神仏混淆の禁止という令がでてくるわけですね。この時期、どういう時代を迎えたのか鈴木先生、お話くださいますか。

鈴木:
 ご承知のように、神仏分離のときに大きなお寺の中では、興福寺が一番大きな打撃を受けたということでよく引き合いに出されますが、五重塔が15円とかで売りにだされて、それも壊すにもなかなか大変だから、火をつけて燃して落っこってきた金具をひろえば、15円ぐらになるだろうということで火をつけようとしたら、奈良の町の人たちがそれでは町中が火事になってしまうので、やめてくれというのでやめた、と。どこまで本当かどうか問題はあるんですけれども、実際に五重塔を買ったという証拠があるんだそうで、そこまで困窮したというのが興福寺であります。その前に興福寺の図をみせてください。
 享保に焼かれるまでの図がここに出ています。
 ほとんど、さっきの奈良時代の復元図と同じでございまして、興福寺というのは何回も何回も焼けるんですけれども、そのつど同じところに同じ形で再建してきているんですね。ここに五重塔があり、東金堂があり、西金堂があり、南円堂があり、三重塔があり、北円堂があり、中央の中金堂、三面僧房、食堂がありますね。この状況というのは江戸時代のはじめの応永のときの状況を描いているわけで、さきほどの話のように300年間ほぼ応永のときにこの塔と東金堂を再建したあとはずっと災害がなく伝わってきたわけです。鎌倉復興のときのできたままのお堂というのが北円堂と三重塔、ここに食堂が鎌倉復興のいちばんおしまいの時期にできています。このうしろのところに三倉(みつくら)という東大寺の正倉院とおなじような格好の倉であります。こういうふうなものが鎌倉のものであります。そのあと焼けて五重塔と東金堂が応永に復興されたのが、現在まで残っておるわけですね。一番中心のこの部分が享保のころに焼けてしまったわけであります。その後わずかに南円堂が復興されただけで、これが仮金堂のままだったということです。なんで興福寺がこうなってしまったかといいますと、興福寺と春日さんが一体化した運営というか、むしろ両方とも興福寺が支配してたという状況でありまして、慶應4年に神仏分離の令がでて、その一月ぐらいあとに興福寺のお坊さんがたたちがみんな還俗してしまうわけです。春日社さんの神主になってしまうわけです。
 というのは興福寺の坊さんのトップの人は、門跡とか院家とか京都の貴族のご出身ですので、明治維新のときに早くそちらのほうへ還俗してしまうと、たぶん新政府の要職につけるのではないかと考えたようです。ですからお寺の、奈良のお寺はそうでもなかったんですが、興福寺だけは神仏分離の令が出たすぐその後に、みんなが神主さんになってしまった。みんなが神主さんになっちゃったということは、お坊さんがいなくなってしまった、自然に無住化していると、そういうところに上知令というお寺やお宮の境内を新政府が取り上げてしまうということがあったもんですから、明治5年に、名実共に興福寺は組織体がなくなってしまいます。その中で中金堂なんかは、明治7年に奈良警察署の庁舎に使おうということで中金堂の中央に高い須弥壇があったわけですが、それを取り払って床を張ったんですね。それを取り払った時に、あの有名な鎮壇具(ちんだんぐ)が発見されているわけです。



鈴木:
 こちらの食堂なんかのところも洋風の建築になってしまって師範学校の前身がつくられるんです。あるいは奈良県庁ができたときには、この後のここのところが勧学院なんですけれども、ここが初代の県庁の庁舎に使われるわけです。これがこの後裁判所になって、一条院は37〜8年まで裁判所で使っていたものを今唐招提寺に移して、唐招提寺の(だいさんどう)になっているという、そういうことなんですが、ここの無住になってしまうのと、もうひとつ廻りを塀で囲われてきたわけですが、初代の奈良県の知事が「こういった塀というのは、交通の邪魔だし、文化のさまたげだ」といって、全部取っ払えということになるわけですね。奈良のお寺のなかでも興福寺というのは気の毒にもほとんど塀のない状況になってしまうわけです。そんな風にこの中が官庁街、それぞれが公的な、再興された仮金堂が警察の庁舎になってしまうということで、わずかに残っている講堂というのも中心が失われて、貫主さんがいわれたように南円堂のこのへんのところに信仰の中心が集まっているという状況になってしまったわけであります。
*『奈良六大寺大観』
「一乗院は裁判所となって建物をそのまま使っていたので、昭和39年裁判所の改築に当り、唐招提寺に移されている。観禅院大御堂はこわされて師範学校となり、勧学院のあとには県庁が建てられた(なお現在の県庁は最近師範学校のあった地に改築されたものである)。

山根:
 わたくしも取材中に奈良出身のデザイナーの方から、「うちの先祖が五重塔を買ったんですよ」というお話を伺ったこともありますし、資料によると明治28年に正岡子規が興福寺を訪れたときに、塀が取り払われているのをみて、「秋風や囲いも無しに興福寺」という歌を詠んだ。悲しい歴史があるわけですが、再興を願いでて許可をおりたのが明治14年だそうですが、その間の興福寺の状況はお寺さんの方ではどのような記録が残っているのでしょうか?

貫首:
 記録は非常に断片的しか残っていないのでよくわからないのですが、ただお坊さんが神主になったと、今のわれわれの感覚でいえば、節操がないといいますか、わたくしが今数珠をもっていますけれども、それを辞めて明日から笏を持つというと、「何を考えとんのや」ということになるわけですが、一番冒頭で申したように、そのころのお坊さんの名誉のためにいっておきますと、その頃のお坊さんはそれほど違和感が無かったのではなかったと思います、おそらく。どっちに転んでも藤原氏の氏の繁栄を祈る宗教施設であったと、堂参よりも社参のほうを優先していたと考えると、今の私どもが思っているほど節操の無さはなかったと思われます。いづれにしてもいわゆる無住といわれることになる状況になることは確かですね。無住という言葉は用いるには注意が必要かと思いますが、本当にお坊さんが誰もいなかったのか、という点は若干吟味する必要があるかと思っております。明治の記録で、清水(きよみず)さんがうちの末寺だったことがあるんですが、清水寺で無住だから住職を派遣してくれという願状なんかが来ていることがあるんですけど(・・) 無住というのは住職がいない、総体の責任者が誰だったかわからないということで、遠目にでも興福寺を少し見ている人たちがいたと思うんですね。西大寺の長老さんが興福寺を管理されるのは明治8年なんですが、それまでの間誰もいなかったということはありえない。本当にそうであれば、今頃興福寺はなかったと思いますし、完全なお坊さんでないけれども僧体であって、興福寺を管理している唐院承仕(とういんじょうじ)、唐院はカラ院と書くんですけれども、そういう承仕という役職の人がいたわけです。そういう興福寺を管理している人たちも得度しているんですね。代表的な中村家というのがあるんですが、興福寺の日常管理めいたことをしていたのではないかなぁとわたくしも考えています。
 それからもうひとつは、ほとんど知られていないのですけれども明治4年に全国の(しゃじゅう)が募集されるんですが、その同じ4年に東金堂に鰐口を奉納されているんですね。これは鎌倉時代の鰐口でして、もと法華寺にあったものを奉納されている、奉納されるということは受ける人もいるわけですね。これは工芸としてはいいもので、今現在奈良県の有形文化財になっていますけれども、そういうものを奉納されているということは、全くの無住ということではなかったと思われます。

山根:
 そして国宝館というのが昭和34年に完成するわけですけれども。それまでお寺にあった尊い御仏さまたちはどのような扱いを受けていたのか?というのを写真でご覧いただきたいと思います。
 写真について、お話いただけますでしょうか。これは北の倉?

貫首:下にありまして、文政2年に建てられた仮設の中金堂の内陣に、この頃には明治14年には復興しているわけですから、お寺の中にもどっているわけですから、明治20年ごろだと言われております。寄せ集めてガーッとつっこんだという非常に安置状況としては問題があるんですけれども、有名な阿修羅像もございますし、(次の画像をみながら)これも先に映っておりました阿修羅像で、合掌している前の手が欠けたりして修理以前ですね。そういう状況で安置されていたわけです。
 それから、これは明治39年に撮影したものですが、本坊という住所のある施設の北の倉でありますが、これに集まっている諸仏は破損仏といって傷んだ仏さまなんですね。この仏さまをお求めになる人に差し上げて、その代わりになにがしかのお金を得て、その金でお寺を運営したり、移築したりするという、そういう目的で国の許可を得て破損仏処理という、明治8年ぐらいにやるわけですね、藤田伝三郎とか原三渓とか、益田鈍翁だとか当時の相当豊かな人、文化に興味のある人が(・・)を動かして、欲しいということをおっしゃって、甲乙つけがたいので最後は入札になりまして、二万三千で益田鈍翁が落とすわけですね。そのときのお別れの写真がこれでございまして、もう一枚もっとピンボケなのがあるんですが、
今さしているのが快慶の弥勒菩薩立像なんですね、現在ボストンにいっているわけです。

山根:明治20年の写真をみながら、お話いただきましょうか。

鷲塚:
 今映っているのは南円堂にまつわる仏像が集められた写真ですが、これは展覧会にでています金剛力士像、無著、世親、阿修羅、迦楼羅、こちらに立っているのが現在仮金堂に安置されています薬王菩薩で、肝心のご本尊が写っていないんですけれども、当時すでになくなってしまったお堂のものを寄せ集めた恰好で、こういった状態がしばらく続いたようです。

山根:
 どういうことでこういう状態がおこったのか説明いただけますか?

貫首:
 さてどういうことなのか・・(笑)。 北円堂は無著、世親・中金堂・、その頃は食堂にありました千手観音とかそういったものが、本当かどうかわからないんですけれども、北円堂に押し込められていたとか、そういう話がございますので、無著、世親や薬王菩薩などは居場所がなかったのかな。どういう目的でこうなったか、よくわからないんですけれども。

山根:
 ・・・運びこまれたんですかね?

鈴木:
 それは公園になったからだと思います。興福寺の境内は明治13年に奈良公園になるわけですよね。明治新政府は公園を作れという布告をその前に出すんですけれども、そのときに名所旧跡を公園にしろと。東京ですと浅草寺、上野の寛永寺、京都祇園の八坂神社、今の丸山公園、要するにああいうのを公園にしようとした。それを受けて興福寺の境内が明治13年に公園になるんですが、その目的は今の都市公園というよりも名所旧跡を公園にしようと、だからこれはその時の展示場に使ったんだろうとわたくしなんかは考えるんですけれども

山根:
 今となっては意図不明のこの集合写真ですけれども、この仏さまたちをその後どのようになっていったのでしょうか?

鷲塚:
 いま、公園になったというお話ですが、公園にするために松の木をいっぱい植えるんですね、それで長く時間がかかったわけですが、明治13年からこういう寺院に対する交付金(保存金)が政府から出るようになって、こういうお金で少しずつ修理とかできたかと思いますが、これが本格的になるのが明治30年の古社寺保存法というのができて、いわゆる補助金として特別保護建造物という今の国宝建造物ですね、それから他の美術工芸品はいずれも国宝という名前になるわけです。
 それで興福寺は明治35年ぐらいから交付金を得て修理にとりかかるわけです。 しかし、さきほどお話しがあったように塀がなくなってしまって公園になって、一般のひとが自由に行き来ができるようになってしまったわけです。ですから、手入れのための経費を拝観料というかたちで徴収できるような状況ではなかったようです。
 しばらく後になりますけど、終戦後は五重塔を開放して、拝観の対象としてお金を払えば中に入れるという状況がしばらく続きまして、わたくしが学生の頃は入れたんです。しかし有名な塔ですから拝観の人が多くて、塔がどんどん傷んでいく、というので拝観をやめなければいかんということになりまして、その他の事情もあって、明治7年にとり壊された食堂(じきどう)と細殿(ほそどの)の跡に国としてはじめての収蔵庫を作ったんです。それが現在の国宝館であります。この建物は鉄筋コンクリートの建物でして、極端にいえば浮いたような恰好になっており、床下は当時の食堂の礎石が全部見られるようにして保存されている、そういう風な構造であります。あちこちに分散されていた仏さまのうち、無著、世親さんは北円堂にちゃんとお戻し、その他のお堂がなくなったお像を集めて今の国宝館で展示ができるようになったというわけです。このことによって文化財としての集中管理ができますし、修理も徐々に進んでいい状況をとりもどしていったというのが戦後の歴史でございます。

金子:
 いま、鷲塚さんから明治30年の古社寺保存法の話が出ましたが、すこし補足させていただきます。明治政府は神仏分離令発令による廃仏毀釈の風潮の影響から、貴重な文化財が取り壊されたり、売却されたりしている状況に危機感をもちまして、明治5年(1872)の5月から、当時の博物館に命じて、各地で文化財調査をはじめます。この年が壬申の年であったことからこの調査は「壬申の検査」と呼ばれました。こうした動きが古社寺保存法の制定につながります。
また、明治23(1890)年には、岡倉天心が帝国博物館美術部長に就任し、古美術の保存と技術の伝承、それに博物館での展示を考えて、兼任していた東京美術学校(校長)の作家に依頼して、多くの古美術の模写模造をしています。この時、無著、世親像や東金堂維摩居士像などの原寸大の見事な模造が竹内久一や山田鬼斎らの作家によって作られており、現在でも東京国立博物館に保管されています。
こうした流れが、今回、このシンポジウムを企画された東京藝術大学保存修復彫刻研究室や、現在、彫刻の修復に活躍している京都の美術院国宝修理所につながっていくことになります。
 それにしても、明治の廃仏毀釈による仏像をはじめとする仏教美術軽視、破壊の状況には今も心が痛みます。

山根:
 写真を拝見しますと、貴重な仏さまがいらっしゃいますが、海外に流出したほとけさまのことをもう一度整理してお話いただけますか?

鷲塚:
これがボストン美術館にいっている快慶の弥勒菩薩像ですね。


金子:
梵天、帝釈天、これは今アメリカ・サンフランシスコのアジアギャラリーの所蔵ですね。この獅子に乗った文殊菩薩はもと興福寺勧学院の本尊で、個人の手を経て国有となり、今は東京国立博物館が保管しています。 

山根:
 興福寺から流出した仏さまの多くが、よその国でも大切に保存されていることは不幸中の幸いであったわけですけれど、それでも現在、興福寺で拝観できないということは、大変残念な気がいたします。
 さて、こういう時代を経て昭和25年に文化財保護法が制定され、昭和34年には、今の鉄筋コンクリートの収蔵庫が完成するわけですね。これは国宝の収蔵庫としては日本で第一号だそうですが、ここに本来のお堂を失ったほとけさまがたが、文字通り一堂に納められ公開展示されているわけです。このことについて貫主さまからご覧になって、仏さまなのに本来のお堂ではない収蔵庫に納められているというのは、信仰の面からいかがなものでしょうか?

貫首:
 きわめて複雑な心境ですが、興福寺の明治以降の複雑な事情が反映しているわけですから、受け止めざるを得ないですね。もどせるものはもどしていく、という姿勢で臨んでおりますので、新しいお堂などもできるものからだんだん造って戻していくというのが本筋であると思っておりまして、ただ今の現状が固定的であるとは考えておりません。

鷲塚:
 貫首が現在お住まいの菩提院というお堂がございますが、昭和40年代初めの頃、傾きかけて倒れそうな状況になってました。それで先々代のご住職からお話がございまして、木造の建物として形態を守りながら、保存することができないかという話が出まして、私がたまたまその頃文化庁で防災係をしておりまして、仏さまを守るには耐震耐火の建物を作る必要があるということで内装を鉄筋コンクリートで作って、その外側を今までとおりの木造でやりなおしたらどうかということで、工事をしたことがございます。そんな風に、景観を守りつつ、仏像を収蔵する安全な施設として蘇らせた珍しい例も、興福寺さんには残っております。

金子:
そうした間にも仏像の保存と公開ということを考えられ、東京や奈良の国立博物館などに像を寄託されています。たとえば、阿修羅像は昭和34年(1959)興福寺国宝館が完成するまで、奈良国立博物館に預けられていました。昭和21年に画家の杉本健吉は奈良国立博物館の展示ケース内に陳列されている阿修羅像、十大弟子像を油彩画で描いていますが、これは第2回「日展」の特選に選ばれています。この絵は長く奈良博の旧事務棟の館長室にかけられていたと記憶しています。