Online Lecture 17

C&Gシンポジウム講演原稿


「東京藝術大学と文化財保護」

概論)

 こんにちは、ただいまご紹介を頂きました籔内佐斗司です。私は、東京藝術大学大学院の文化財保存学で、仏像を中心とした木彫文化財の制作技法と材料、および修復を担当する一方で、彫刻家としての活動も行っています。ご覧の画像は、私の作品ですが、1000年以上前の日本の仏像とほとんど同じ技法と材料で制作しています。作品は、日本人の自然観と仏教的世界観を表現しています。すなわち私の彫刻家としての活動の源泉は、古い仏像の研究とその修復の経験に基づいているといえます。主なテーマは、「こころとからだ」。肉体はこころが纏っている鎧や仮面のようもので、そのこころをご覧のような「童子」という姿で表現しています。「童子」は、日本語で「たま(霊)」、中国語では「気」、英語では「Spirit、Soul」というような意味で、「エネルギー」と言い換えることができるかもしれません。

 

仏教について)
 
 さて日本の有形文化財の多くは、仏教美術です。重要文化財および国宝の指定を受けている建造物の大半は仏教寺院ですし、絵画の多くも仏画です。工芸品も寺院で用いられたものが多くあります。そして彫刻の90%以上は、仏像関係といえます。したがって、私たちの研究室が研究対象としている彫刻文化財の大半も木造の仏像です。
 文化財修復の話をする前に、仏教について、すこし解説をしたいと思います。今からおよそ2600年前のインドは、古代からの民族宗教であるバラモン教による堅固な身分社会を構成していました。そこに誕生したゴータマ・シッダールタ(釈迦)は、バラモン社会に対するアンチテーゼとして仏法を説きました。何不自由ないクシャトリア・王族階級に生まれた彼でしたが、不平等な身分制度と戦乱に苦しむ人びとの姿に疑問を抱き、人が苦しみから逃れ幸せに生きる方法について考え始めました。そして裕福なインド人がある年齢になるとそうするように、身分社会を離れた出家修行者となり遊行の道を歩み始めました。多くのグル(自由思想家)のもとで哲学や宗教学を学び、またヨガの源流となる苦行による厳しい肉体的苦痛を経験し、私たちの周りで起こる全ての「ものとこと(事象と現象)」が生成される根本的な仕組みについて思索を巡らせ、瞑想と直感によってこの世の根本法則である「法(Dharma)」を見極めたといわれます。その後45年間、弟子とともに説法の旅を続け、平等と平和を説いて多くの支援者と帰依者を獲得しながら、80歳でその生涯を終えました。
 釈迦の死後、戦乱が続いたインドを統一したアショカ王らの庇護の元に、仏法は全インドに広がり、バラモン教を凌ぐまでになりました。やがてイラン高原や中央アジアに伝播し、様々な宗教の教義を吸収しながら、非常に複雑な思想体系をもった「大乗仏教」へと発展しました。そしてシルクロードを通じて中国にももたらされ、隋から唐時代(6〜10世紀)にかけて多くの漢訳経典が整備され、東アジア全域に広がりました。一方、釈迦在世中の教団を理想とする「上座部仏教」は、南インドやスリランカから東南アジアに広がり、上座部仏教圏を形成して現在に至っています。

日本人の精神世界)
 日本の宗教事情をお話しします。数万年前に遡る「縄文時代」は、世界史的に見れば新石器時代にあたります。この時代は、日本列島という大陸から孤立した島々の各地に住み着いた先住民が、豊かな自然と温暖な気候の恩恵を受けながら1万五千年という長い期間、狩猟採集生活のみで平穏な定住生活をしていたと考えられています。実のなる広葉樹のクリやブナを何世代にも亘って植林してそれを採集するという独特な定住生活を営んだと考えられています。木の実などを加熱調理した高度な土器や装飾性の強い土器、宗教儀礼に用いた「土偶」も多く出土しています。また豊かな山や海で狩猟と漁労を行っていました。彼らは、天地の恵みや自然界の様々な現象に神々を見る自然宗教を持っていました。太陽や雨風、雷、また山や川や樹木に神性や霊性を見て、祖先の霊と共に畏敬しました。その後、地球の寒冷化に伴い、大陸で諸民族の南下が活発となり、日本列島にも大陸や朝鮮半島から人々が移り住んで、西日本を中心に稲作と金属器の文化が花開きました。そして稲作に特徴づけられる農業を中心とした弥生時代を経て、中国大陸から原始道教や仏教などの宗教が人々の移住に伴ってもたらされ、人々の混血も進み、巨大な墳丘を造営した古墳時代が訪れます。
 そして6世紀に朝鮮半島南部の国・百済から中国江南地方の仏教がもたらされます。8世紀には、盧舎那仏を本尊とする華厳信仰に基づいた国家仏教の時代になり、多くの寺院が建立されて仏教が日本列島全土に広まりました。9世紀ころには、古代からの起源を持つ神祇信仰と融合した「神仏習合、本地垂迹思想」が生み出されました。自然宗教と仏教が混じり合った神仏習合思想には、その底流には縄文時代以来の自然観が脈々と流れ、現代の日本人の死生観や行動様式に決定的な影響を及ぼしていると考えられています。
 キリスト教には「神→人→自然」という序列があると思いますが、日本人は、人も自然の一部と考え、山や川や樹木、動物など自然界のすべてに霊性を見て、祖先の霊や万物の霊とともにとても大切にしてきました。この考えは、縄文時代に源を持つ自然信仰と、大乗仏教が説く「山川草木 悉有仏性」の考え方が融合したと考えられ、多くの日本人は、ケルト神話やアメリカ大陸の先住民族の自然観にとても親しみを覚えます。
 1945年の敗戦によって、千年以上に亘って培ってきた全ての信仰や社会体制が打ち砕かれました。そして日本人は、アメリカ流の資本主義と合理主義に基づいた経済活動に励んで、極貧の国家経済を世界有数の経済大国にまで成長させました。戦後、アメリカの強い影響下にあった韓国で急速にキリスト教が広まり定着したことと比べ、占領下の日本ではほとんどキリスト教は広まらなかったことは、日本人の精神性がよく表れているかもしれません。
 そして、戦後に営々と築き上げてきた現代文明の産物が、2011年の東日本大震災と津波によってあっけなく飲み込まれる様を目の当たりにして、日本人は、無宗教な日常と経済一点張りの国づくりを反省し、ふたたび大自然を畏敬する縄文以来の世界観に立ち帰ろうとする動きが強まっています。

伝世古と土中古)
 日本列島は、大陸で政変や王朝の交代があるたびに、前時代の政治や文化を担ったひとびとの避難先であったといえます。6世紀に、朝鮮半島を経て仏教が伝播して以来1500年の間に、大陸の政治や宗教事情が大きく変動するたびに、断続的に日本に新しい仏教がもたらされました。したがって、この間に中国大陸や朝鮮半島で消滅してしまった文化や宗教が、日本化されながらも現在まで脈々と残っています。たとえば日本の国家元首である「天皇」という呼称は、古代道教で北極星を意味する「天皇大帝」に由来します。天上天下をそれぞれに支配する「天皇、地皇、人皇」という3つの皇帝うち、「天皇」は天上を統べる神のことで、本来は人間界を支配する皇帝「人皇」には用いられないものですが、おそらくスメラミコトが天界を支配する女神・アマテラスの末裔とする神話から、「天皇」という呼称を採用して現在に至っているのだと思います。神話の時代から数えて125代目になる天皇制の起源ははっきりしていませんが、5世紀頃には確立していたと考えられます。その後、常に正当な血統や序列のもとに継承されたわけではありませんが、制度的には、王朝の交替や、ほとんどの近代的先進国が経験してきたような革命や市民戦争を経験せずに近代化した極めて珍しい国だといえます。1945年の敗戦でも、元首であった昭和天皇裕仁の戦争責任を連合国側が問わなかったことは、さまざまな政治力学の結果とはいえ、日本という国家の特異性を象徴しています。
 以上のようなことも踏まえ、日本の文化継承の特徴は、ひとからひとへと伝えていく「伝世古」であるといえます。「古」には、「もの」も「こと」も含まれます。昭和天皇の大喪の礼や今上天皇即位の式典に参列した中国の政府高官が、「8世紀の中国の儀式が日本に残されていた」と驚いたと言われます。紀元前にインドで成立し唐時代に中国でたいへん隆盛であった仏教の一派である「密教」は、その後に行われた廃仏毀釈によって大陸や朝鮮半島から完全に消滅しましたが、日本では1200年後の現在も仏教の主要な一派として存続しています。近代に西欧で形づくられた文化財の概念が「有形文化財」が中心であった一方、人が伝える「文化情報」を「無形文化財」とする概念が日本から生まれた理由が「伝世古」という文化の継承形態にあります。そしていち早く「無形文化財」すなわち技能を持ったひとを保護し育成することに着手した人物が、岡倉天心でした。

岡倉天心とアーネストフェノロサ)
 19世紀中頃、英米仏露という欧米諸国が、インドや中国、東南アジアの分割統治を完成させ、その次ぎに外交や貿易を厳しく制限していた日本の開国を強く求めてきました。17世紀初めから250年間政権を天皇から委ねられていた武家の徳川氏が、国家の分裂や植民地支配を避けるために、1868年に天皇家に政権を返還し、日本は天皇親政の近代国家へ急速に脱皮しようとしました。これを、明治維新と言います。そして宗教政策として、仏教優位の神仏習合思想から古代の神道を復活させようとしたのが神仏分離令でしたが、一部の民衆が仏教寺院を襲撃して仏像や仏具を破壊するという暴挙を誘発しました。しかし新政府は仏像破壊をわずか三年で終息させ、その後急速に歴史遺産や文化財の保護が国策として行われる機運が盛り上がったことは、不幸中の幸いでした。
 19世紀の文化財保護の代表的人物として、文部官僚であり美術史家、思想家でもあった岡倉天心を忘れることはできません。幕末に横濱で福井藩士の子として生まれた岡倉天心は、幼少時から漢籍や英語に親しんで、開成学校(後の東京大学)を卒業しました。彼は在学中に、招聘外国人教師の米国人・アーネストフェノロサと知り合い、近代国家の条件としてその国の歴史と文化に基づいた国民的アイデンティティの重要性を教えられ、彼と共に廃仏毀釈で破壊された仏像や仏具を調査するうちに、仏教美術や伝統的工芸の優秀さを知り、その保護に目覚め、文部省に奉職してからは東京国立博物館や東京美術学校の創設に尽力しました。また明治維新で武家や寺院というスポンサーを失った美術工芸の職人たちに、貿易産品を製作させることによって仕事を確保しました。このころに制作されヨーロッパに輸出された極めて精緻な美術工芸品が、ジャポニスムの形成に寄与したことは記憶に留められるべきでしょう。そして、現在も数百年の歴史を持つ伝統工芸と言われる手仕事が、工業製品である近代工芸とは別に確立しているのです。
 そして、東京美術学校を前身とする東京藝術大学美術学部のなかで、岡倉天心の建学の理念をもっともよく伝えているのが、私たち文化財保存学保存修復講座といえるでしょう。前置きが長くなりましたが、今日は、そうした私たちの活動をご紹介させて頂きたいと思います